高校・大学時代の関係者にも取材をするが、やはりほとんどの人の印象に残っていない。どこを調べても若き日に自らの意志によって政治意識を育んだ形跡は見られない。ましてや現在のような政治スタンスは見られない。せいぜい垣間見えるのは、祖父・岸信介への敬慕のみ。「人間としての本質が空疎、空虚なものなのではないかという疑いすら生じさせる」。

 晋三は「政略」的に神戸製鋼所に入社し、無難に仕事をこなしていたが、兄が政界入りを拒んだため、晋三が父の秘書を務めることになった。

 青木は神戸製鋼所時代の上司に取材する。当時の晋三について、「右派的な雰囲気」があったかを尋ねると、次のように答えている。

<「ないない、まったくない。それ以前、という感じで、彼が筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じませんでした。普通のいい子。あれは間違いなく後天的なものだと思います」>

 父の秘書官になった晋三は、懸命に父をサポートした。外務大臣だった父に寄り添って、海外出張にも出かけた。晋太郎は、首相目前という地位にいた。

 しかし、1991年に病死。代わって晋三が選挙区を受け継ぐことになり、1993年の総選挙に出馬した。

 この1993年は、激動の年だった。リクルート事件などによって政治改革の気運が高まる中、小選挙区制導入などに消極的な宮沢喜一首相に対して内閣不信任案が提出されると、自民党・竹下派から分裂した小沢・羽田グループ(改革フォーラム21)が賛成に回り可決。6月18日に衆議院が解散され総選挙に突入した。

 選挙の結果は自民党が過半数を大きく割り込む敗北で、8月9日に野党勢力が結集する細川内閣が成立した。その5日前には、慰安婦問題についての「河野談話」が出された。宮沢内閣の実質的な最後の仕事だった。

 総選挙は、自民党の敗北だった。自民党は野党に転じ、政権を失った。しかしこの選挙で、晋三は田中眞紀子、岸田文雄、塩崎恭久、野田聖子、山岡賢次、高市早苗らとともに、初当選を果たした。ここから晋三の右派イデオロギーへの急接近が始まる。

 本書では触れられていない部分を、以下補っておきたい。

 8月10日、細川首相は就任後はじめての記者会見を開いた。そこで、大東亜戦争について「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と述べた。

 これに野党・自民党は反発し、8月23日に党内に「歴史・検討委員会」が設置され、10月15日、小堀桂一郎を講師とする第1回委員会が開催された。

 この委員会は、次のような「趣旨」を掲げた。

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安倍晋三の歴史認識が構成されたのは…