そんな晋三を溺愛したのが、母方の祖父・岸信介だった。岸は戦前期に満州経営の最前線で活躍した官僚で、1941年東条英機内閣では商工大臣となった。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されたが不起訴となり、政界に復帰。1957年に首相となると、反共の立場を鮮明にし、憲法改正の立場をとったが、1960年日米安全保障条約改定を強行して退陣した。
<強運と老獪(ろうかい)さでA級戦犯としての訴追を免れて権力の頂点にのぼりつめ、猛烈な批判を受けながらも日米安保条約を改定に導いた“昭和の妖怪”。しかし、息抜きに赴いた温泉宿や別荘ではひたすら孫に愛情を注ぎこむ優しい祖父だった。世間では極悪人かのように指弾されているが、本当はそんな人じゃないんだ――そう考えて岸を攻撃する者たちへの反発を幼心に刻んだとしても不思議ではなく、これがやはり晋三の原点といえば原点なのであろう。>
ここで一人の人物の不在に気づかされる。もう一人の祖父・安倍寛(晋太郎の父)である。晋三は岸について繰り返し語っているものの「寛についてほとんど語ろうとしない」。一体なぜか。
寛は戦前・戦中に衆議院議員を務めた。平和主義者で反戦を貫き、東条内閣の方針に真っ向から刃向った。庶民目線で「富の偏在」に憤り、権力の専横に全力で抗う反骨者として地元から敬慕された。1942年の総選挙では、大政翼賛会に抗い、翼賛会の非推薦で出馬。特高警察などの厳しい弾圧と監視を受けながら、当選を勝ち取った。
しかし、戦後すぐに51歳で病死する。そのあとを継いだのが息子の晋太郎だ。
戦中、晋太郎は徴兵され海軍に入隊した。そこで「特攻」を志願し、死を覚悟する。1945年春、父親と面会すると、病床の寛は言った。「この戦争は負けるだろう。だが、敗戦後の日本が心配だ。若い力がどうしても必要になる。無駄な死に方はするな」。
晋太郎は、命を落とすことなく、戦後を生きることとなった。毎日新聞社に入社し、岸信介の娘・洋子と結婚。1958年に衆議院議員となった。
晋太郎がよく口にする言葉があった。「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」。これは口癖のように、繰り返し語られたという。晋太郎は、戦争に反対した父を誇りにしていた。
晋三が生まれた時には、すでに祖父・寛はこの世にいなかった。そして、父・晋太郎は家にほとんどいない。晋三を可愛がったのは母・洋子と祖父・岸信介。シンパシーは、必然的に母方の家系に傾斜していった。
晋三は目立たない子どもだった。凡庸な「いい子」で、これといったエピソードが皆無に近い。「特に感性が研ぎ澄まされ、よかれ悪しかれ既存秩序への懐疑や反発なども強まる少年期から青年期にかけての逸話が、晋三にはほとんどない」。
青木は、成蹊学園での同級生や先輩・後輩、教師らを訪ねて歩く。しかし、「返ってきた答えは判で押したように同じようなものばかりだった」。勉強ができたという印象もない。スポーツが際立っていたという印象もない。特別な印象が残っておらず、首相になる器とは思えなかった。関係者はそう口を揃える。