曽我蕭白「雪山童子図」紙本着色 一幅 169.8×124.8cm 明和元年(1764)頃 三重・継松寺
曽我蕭白「雪山童子図」紙本着色 一幅 169.8×124.8cm 明和元年(1764)頃 三重・継松寺
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白隠慧鶴「達磨図」紙本着色 一幅 192.0×112.0cm 大分・萬壽寺
白隠慧鶴「達磨図」紙本着色 一幅 192.0×112.0cm 大分・萬壽寺

 数年前の大河ドラマ「軍師官兵衛」で、主人公の黒田官兵衛が何度か窮地に陥るのだが、中でも過酷な土牢に監禁され、以後足に障害が残るという話があった。これは、織田信長への裏切りを考え直すよう赴いた官兵衛を閉じ込め、信長に徹底抗戦したあげく、結局敗戦色が濃くなると籠城していた城から単身逃げ出した荒木村重の所業である。最終的に人質として城に残った女子どもを、信長から皆殺しにされる結果を招いた。大河ドラマ視聴以後、荒木村重という名前が私の中では“卑怯者”の代名詞になっている。

【白隠慧鶴の「達磨図」はこちら】

 そんな荒木村重に子孫が残っているとは驚きだが、信長の処罰がくだる前に乳母により逃がされた赤子が実はいたのだ。この子は、信長と10年以上も戦いを続けていた最中の石山本願寺に匿われたのち、やがて絵師として活躍する岩佐又兵衛(いわさまたべえ)として成長した。信長の息子・信雄の近習を務めたのち、京都、越前など各地を流転、最後は徳川家光の娘・千代姫の婚礼調度制作を担当するなどして、江戸で没した。

●波乱の画家・岩佐又兵衛とは

 誕生直後から波乱に満ちた人生を送った又兵衛の作風は、劇的であり写実的、むごたらしい表現もいとわない手法はのちの画家たちに大きな影響を与えたと言われている。中でも浮世絵など、部分を誇張する表現法は、又兵衛にその源流を求める声が多い。絵画の中心が瀟洒淡麗(しょうしゃたんれい)の狩野派、土佐派、琳派だった江戸時代前期、又兵衛の描く極色彩でリアルな世界は、ある種異端ともいえた。

 上野公園の東京都美術館で2019年4月7日(日)まで開催されている「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」で展覧されている作品は、岩佐又兵衛を源流とした江戸主流の大和絵界の中で異彩を放つ作者たちのものである。これは、1970年に辻惟雄氏が出版した『奇想の系譜』という著作に取り上げられた、岩佐又兵衛、狩野山雪(かのうさんせつ)、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、曽我蕭白(そがしょうはく)、長沢芦雪(ながさわろせつ)、歌川国芳の6人に加えて、白隠慧鶴(はくいんえかく)、鈴木其一(すずききいつ)を合わせた8人の画家の作品を集めた展覧会である。今回、初めての展覧となる作品や海外からの初となる里帰り作品もあり、注目度は高い。

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曽我蕭白が描く仏教図の彩色