歴史的名牝のジェンティルドンナ(写真:getty Images)
歴史的名牝のジェンティルドンナ(写真:getty Images)
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 平成の30年間は競馬界にも大きな変化が起こった時代でもあった。特に名牝と呼ばれた強豪牝馬たちのローテーションに対する認識は昭和の頃とは明確に変わったといってもいいだろう。

 クリフジやトキツカゼらが牡馬相手にクラシックを勝った1940年代の時期は別として、昭和の終盤に差しかかるころには牝馬は牝馬同士で対戦するものという考え方が根強く、特に優駿牝馬(オークス)を勝つような中長距離向きの牝馬はクラシック後は早期引退かG1戦線から姿を消すことが多かった。

 実際、昭和61年(1986年)にJRA史上初の牝馬三冠(非クラシックのエリザベス女王杯を含む)を達成したメジロラモーヌも、三冠後は有馬記念での9着を最後に早々と引退。こうした傾向は古馬牝馬を対象にしたG1が当時はなかったことも影響していただろう。古馬になってからも現役を続けた強豪牝馬たちも、牡馬に交じって中距離以上のG1で勝利をつかむ例はほとんどなかった。

 ただしスプリントやマイルなど、短めの距離なら平成初期に牡馬と互角以上に戦えた名牝たちも出現している。1992年(平成4年)に桜花賞とオークスの二冠を達成したニシノフラワーは同年末に牡馬の強豪ヤマニンゼファーを2着に従えてスプリンターズステークスを制覇。93年(平成5年)にはシンコウラブリイがマイルチャンピオンシップを勝っている。

 そして94年(平成6年)には、女傑と呼ばれたヒシアマゾンが台頭。外国産馬のクラシックと天皇賞への出走が認められていない時代、そして古馬牝馬G1がない時代ゆえにG1勝利は2歳時(当時の表記では3歳)と3歳時の牝馬限定戦を1勝ずつだったが、3歳暮れの有馬記念では同世代の三冠馬ナリタブライアンの2着。4歳になってもG2を2勝にジャパンカップ2着と、中距離以上でも牡馬相手に互角の戦いを繰り広げた。

 このあたりから、徐々に古馬牝馬に対する認識が変わり始めた。超一流の牝馬ならば中長距離のG1レースでも牡馬に対抗できるのではと……。その流れを決定的にしたのが、エアグルーヴだった。

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一時代を築いたエアグルーヴ