00年大会は序盤から破竹の勢いを見せ、準々決勝・イラク戦を4-1、準決勝・中国戦を3-2と勝ち上がるなど、日本は圧倒的強さを見せた。最後の決勝・サウジアラビア戦こそ望月重良の1点のみだったが、日本は危なげなくアジア王者の座までたどり着いたと言っていい。

 しかしながら「赤鬼」の異名を取った気性の荒いフィリップ・トルシエ監督と選手の間に常に不穏な空気が漂っていた。とりわけトップ下を希望しながら左アウトサイドで起用されていた中村俊輔との確執は1つの懸念材料になっていた。そこで中村をうまくコントロールし、ポジションを入れ替えながら最良のバランスを構築したのが、エースナンバー10の名波浩である。名波は中村からのパスをダイレクトボレーで決めるという衝撃弾をイラク戦で決めているが、2人のコンビネーションが絶妙だったことを象徴する場面だった。

 左DFの服部年宏を含めた「左のレフティ・トライアングル」も眩いばかりの輝きを放った。それを演出したのも名波。卓越した戦術眼と統率力はMVPに十分すぎるほど値した。エースナンバー10は翌01年のひざのケガによって02年日韓ワールドカップを逃したものの、この大会の圧倒的な活躍ぶりは多くのサッカーファンの脳裏に焼きついているに違いない。

 名波にうまく生かされた中村は、4年後の04年中国大会で「チームを勝たせるエース」へと大きな飛躍を遂げた。同大会のジーコ監督率いる代表は中田英寿という絶対的司令塔が長期離脱中で、小野伸二や稲本潤一ら欧州組数人も不在。海外クラブ所属選手で参戦したのは中村(当時レッジーナ/イタリア)と川口能活(当時ノアシェラン/デンマーク)の2人にとどまった。オマーン、タイ、イランという厳しいグループに入ったグループリーグは敗退の危険性さえあるのではないかと危惧された。

 その初戦・オマーン戦で、ミラン・マチャラという日本を知り尽くした知将に徹底した対策を採られたジーコジャパンは大苦戦を余儀なくされる。そこで均衡を破ったのが、エースナンバー10のテクニカルなゴールだった。中村は続く第2戦・タイ戦の先制弾もゲット。彼の活躍は序盤戦の重苦しい雰囲気を払拭するとともに、チームに大きな自信と勢いを与えた。決勝トーナメントに入ってから鈴木隆行や玉田圭司らFW陣がゴールという結果を残すことができたのも、10番の圧巻パフォーマンスがあったから。大会3ゴールの玉田と中澤佑二、2ゴールの福西崇史と中田浩二ら以上に、中村というファンタジスタの目覚ましい活躍が光った大会だった。

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本田の地位が不動になった11年大会