ぐっと身を乗り出した。なぜそう言えるのか。「ナポレオンがやったことの多くは、その時代の人たちや社会が求めていたことだった。仮に彼が3歳で死んでも、彼がいたために日の目を見なかった第2のナポレオン、『ナポレオン・ダッシュ』のような存在が現れて、第1のナポレオン、つまり本物とほとんど同じことをやっただろう」。その後の歴史の流れの延長上にある「現代」も、いま私たちが暮らしている社会とそうかけ離れてはいなかっただろう、という話だった。

 こうした仮説は実験では確かめられない。しかし、当時の社会・経済情勢を一つ一つ押さえていけば「偉業」がそれらと無関係に1人の人物によってもたらされたとは、確かに考えられない。

 他国などの勢力から抵抗されようと、当事者が死去しようと、人々の求めに応じて姿を現し、世の中を変えていくsomething、「何か」が歴史には存在する――。そうした考え方に心が震えた。

 近年ベストセラーになった本に吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)がある。私が読んだのはその3年前、中学1年生の時だが、ナポレオンの退場についてこの本は同じ趣旨の見方を反対側から示している。

 いわく、明治時代に制定された日本の旧民法典を含め、各国に影響したナポレオン法典の法治主義は評価できる。だが、対英禁輸からロシア遠征失敗へと続く流れで「ナポレオンの権勢も、世の中の正しい進歩にとって有害なものと化してしまった」。その結果、ナポレオンの退場は「遅かれ早かれ避けられない」ことになっていた、というのだ。

 天下の大勢にあわない指導者はその座を追われるというのは、儒教の基本原理でもある。

 天下の人々の心に従わない暴君を追放するために人が立ち上がる。10人、100人が殺されても、無数の人が次々に立ち、やがて追放を果たす。追放が個人ではなく、天下によるものだからだ――。

 これも当時なりのsomethingとして私の中ではつながっている。

「世の中にとってそうあるべきこと、正義は遅かれ早かれ実現する」

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