学部時代は1年生のときが暗黒時代で4年生になるまでに少しずつエンジンがかかった感じ。何となく実験が面白そうだと思えて、物理の大学院に進みました。

 親は早く就職してほしかったんだと思います。「そんなに勉強してどうするの?」みたいなことはよく聞かれた。こちらも、将来、研究者になろうとか、なれるとか、思っていたわけではありません。

――大学院はどうでしたか?

 つらかった。研究室で、私の参加する研究を手伝う助手の方はいなかったんです。教授はテーマをくれて「つくばに行って実験してこい」って言うだけ。「原子核の性質を調べるための検出器を開発する」という実験なんですが、期限までにできないんです。やってもやっても間に合わない。何とか先輩たちに助けてもらって修論を書きましたが、審査員の先生にはボロクソに言われ……。それでも博士課程に進み、修士で始めた実験を続けました。

 博士課程って、普通は3年なんですけど、私は5年かかった。最低限の結果が出るまでにそれだけかかったんです。やっているときは、ずーっとつらかったです。楽しむ余裕は全くなかった。でも、振り返ると楽しかったんですね。先生が放置主義だったのが、私には合っていた。先生のお陰で「自分で何とかしなくちゃいけない」ということをすごく学びました。

 学生を指導する立場になってみると、博士号を取った人の中でも「自分で何とかする人」って少ない。そういう人を育てるという意味で私の先生は偉かったと思いますし、多分そのお陰で私はずっとやってこられたんだと思います。

――博士課程の最後のころに研究対象を変えたんですね?

 このころもウジウジと悩んでいたんです。博士号をとってからどういう研究をするか、本当に自分が打ち込める面白いプロジェクトは何なのか、と。隣の研究室に西川公一郎さんという世界で初めて加速器を使ったニュートリノ実験を始めた人がいたので、ある日、話を聞きにいったんです。「まだ面白いこと何か残っているんですか」って。そうしたら西川さんが「CP対称性の破れだよ、これからは」って。私は「ウワーッ、これだ」ってなった。そういう単純な、わかりやすいものを目標にするのが性に合っていた。

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自分のほうが深いところまで物理を理解している