日立シビックセンターのプラネタリウムを訪れた一家3人=2012年7月15日、市川温子さん提供
日立シビックセンターのプラネタリウムを訪れた一家3人=2012年7月15日、市川温子さん提供

――いつ結婚されたんですか?

 最初に言ったように私は記憶力がないので覚えていないんですが、たぶん2001年ですね。

――どういうきっかけで?

 いや、別にそろそろもういいんじゃないかっていうことで。修士のころからの同級生です。大学院はすごくつらい日々だったんですけど、それでも何とか続けられたのは彼がいたからというのはあると思います。私に限らず大学院生って割と不安定な状況で、この道でいいのかってみんな悩むところで、そういうとき、励まし合える人がいるというのは大きいと思います。

 長女が生まれたのは、いま18歳なので逆算すると、う~んと2014年、いや違う、2004年12月ですね。

――彼もKEKにいたんですか?

 ちょこっとはいたけど、そのころはもう日本原子力研究所(原研、その後2005年に日本原子力研究開発機構に改組)に就職して、J-PARCの加速器の研究開発をやっていました。

――J-PARCは、KEKと原研が協力して造った大型加速器施設ですからね。

 最初に京大の話をもらったときはつくば市に住んでいて、とても無理だと思ったんですけれど、7年間、施設の建設をやってきて、そろそろちょっと違う研究スタイルにしたいという気持ちはあった。中家さんから「やってみてダメなら戻ればいいじゃない」と言われ、さらに「最初の1、2年は大学の仕事を減らしてできるだけつくばにいられるようにするから」と言ってもらって。実際、どこに所属しようとニュートリノ実験をするにはつくば市や東海村でやる仕事が結構多いんです。

――旦那さんは何と?

「いいよ。子どもの面倒は俺がみるわ」って。子どもが生まれたときから育児は半々でやってました。うちの旦那さんは偉いです。めちゃくちゃ偉いです。そのうち旦那さんの仕事の拠点が東海村になったので東海村に引っ越しました。

――どのくらいの頻度で京都に?

 最初の1年は2週間に1度、1泊するぐらいで、アパートを借りるのももったいないんで、大学の会議室の片隅に簡易ベッドを広げて寝ていました。その後はだんだん京都にいる時間が増えて、週の後半は京都にいて、そこに授業とか実習とか全部集めていました。

――先生として京大生と付き合うことになって、どうでした?

 若いころは自分自身の中に「女でやっていけるのか」みたいな気持ちはあった。なんか、想像がつかなかったんですよ。女性研究者の下に学生が来てくれるのか、とか。自分の偏見だったと思います。実際の学生さんは「女だから」みたいに見ることは全然なかったですね。女だからなめる、みたいなこともなかったし。若い世代だからなのか、そもそも元々そんなふうなのか、わからないですけど。

――なるほど、困ることはとくになかったわけですね。

 そうですね。毎週、行ったり来たりするのが体力的にきつかったですけど。旦那さんは私がいない間はワンオペで育児していたので、それは大変だったと思います。

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お弁当は旦那さんが作ったんです