大山街道(国道246号)沿いに所在した旧二子玉川駅本屋。存在感のある洋風木造建築だった。(撮影/諸河久:1964年11月3日)
大山街道(国道246号)沿いに所在した旧二子玉川駅本屋。存在感のある洋風木造建築だった。(撮影/諸河久:1964年11月3日)

■昭和の憧憬となった旧二子玉川園駅本屋と二子橋を渡る大井町線

 続いては、古い木造駅舎のカットが旧二子玉川園駅本屋だ。道路との併用橋だった二子橋の下流に大井町線の鉄道専用橋を新設して、線路を移行する工事が始まっていた時代の一コマ。手前の道路が国道246号線の旧道で、画面右先の地点から大井町線の路線が道路上を多摩川に向けて敷設されていた。二子橋は当初玉川線の路面電車が渡河していたが、乗客が急増した大戦中の1943年、郵送力を増強するため軌間を1372mmから1067mmに改軌して大井町線の電車が走るようになり、溝ノ口線から大井町線に編入された経緯がある。

 最後のカットが道路併用時代の二子橋を渡る大井町線溝ノ口行きの電車だ。多摩川の右岸(川崎市側)からカメラを向けている。道幅が狭隘なため歩道のスペースもなく、自転車や歩行者は電車が接近すると道端に退避することを余儀なくされていた。画面左側奥に写る往時の二子玉川左岸には料亭が軒を連ね、三業地(料理屋・待合茶屋・芸者置屋の営業が許可された地域)としても繁盛していた。

多摩川に架かる道路併用の二子橋上をのんびり走る溝ノ口行き大井町線の電車。道幅が狭隘で歩道も設置されていなかったため、電車が来ると自転車や歩行者は道端に退避した。二子玉川園~二子新地前(撮影/諸河久:1963年8月25日)
多摩川に架かる道路併用の二子橋上をのんびり走る溝ノ口行き大井町線の電車。道幅が狭隘で歩道も設置されていなかったため、電車が来ると自転車や歩行者は道端に退避した。二子玉川園~二子新地前(撮影/諸河久:1963年8月25日)

 1963年10月、大井町線の二子玉川園~溝ノ口(後年溝の口に改称)は「田園都市線」の一部となり、ネックとなっていた道路併用橋の電車運転は1966年3月に専用橋が完成するまで続けられた。続いて1966年4月には溝ノ口~長津田の延伸線も開業。多摩田園都市の基幹となる交通機関へと田園都市線は飛躍していく。
 
 紹介した玉川線・砧線を走る路面電車は、前述のように1969年5月に惜しまれながら廃止された。玉川線の代替として、8年の歳月をかけて建設された新玉川線(現田園都市線)の渋谷~二子玉川園(1985年に「二子玉川園」が閉園し、2000年に二子玉川に改称)約9400mが1977年4月に開業。営団地下鉄(現東京メトロ)半蔵門線と接続して、神奈川県から都心に直通する田園都市線のネットワークが完成した。

 こうして振り返ると、細かく歴史を刻んできたことがあらためて認識できる二子玉川周辺。コロナ禍が早く過ぎ去って、ぶらり散歩してみたいものだ。

■撮影:1964年11月3日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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