瀬田からの長い下り坂を走って二子玉川園に近付く玉電の旧型車。背景の瀬田台地の左端には行善寺の伽藍が見える。瀬田~二子玉川園(撮影/諸河久:1964年11月3日)
瀬田からの長い下り坂を走って二子玉川園に近付く玉電の旧型車。背景の瀬田台地の左端には行善寺の伽藍が見える。瀬田~二子玉川園(撮影/諸河久:1964年11月3日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、東京急行電鉄(現東急電鉄)玉川線が走っていた1960年代、都民の憩いの地だった二子玉川園界隈の憧憬を紹介する。

【今では見られない「砧本村駅」や歩行者すれすれの二子橋など、当時の貴重な写真はこちら(計6枚)】

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 昔からの地元の人は、あまり「にこたま」とは呼ばないという。どちらかといえば「ふたこ」に愛着があるかもしれない。読者のみなさんは何と呼んでいるだろうか。

 世田谷区の南西に位置する二子玉川。地名として存在するわけではなく、いわゆる「通称」だ。かつて、この地と渋谷を結んでいた路面電車「東急玉川線」は1969年5月に廃止され、半世紀以上が経過したことになる。「玉電」の愛称で親しまれ、美しいフォルムの路面電車にファンが多かった。玉電は世田谷区の発展に寄与し、南西部に「街」を形成した。

 ちなみに、現在の田園都市線の名称「二子玉川駅」になったのは、実は2000年のこと。意外にも歴史は浅い。それまでは「二子玉川園駅」だった。

二子玉川園駅4番ホームで発車を待つ渋谷行き玉電。この日は行楽日和に恵まれ、駅頭は乗客で賑わっていた。(撮影/諸河久:1964年11月3日)
二子玉川園駅4番ホームで発車を待つ渋谷行き玉電。この日は行楽日和に恵まれ、駅頭は乗客で賑わっていた。(撮影/諸河久:1964年11月3日)

■水辺のリゾートとして繁盛

 冒頭の写真は瀬田から続く勾配を下って終着の二子玉川園の構内に接近する玉電。乗務員が折返しを配慮して行先板を「渋谷」に変更している。画面左隅のカーブした線路が、砧本村に向かう砧線だ。玉電の背景となる瀬田の高台には、浄土宗「獅子山西光院行善寺(ぎょうぜんじ)」の伽藍が写っている。ここからの富士山、丹沢や多摩川の展望はまさに絶景で、「行善寺八景(玉川八景)」と呼ばれており、古くは浮世絵版画や絵葉書に雄大な田園風景が残されている。

 往時の多摩川は水量が豊富で、清流に浮かべた屋形船からの鮎漁や花火大会なども開催され、東京の奥座敷的な水辺のリゾートだった。玉電もリゾート観光客の足として大いに繁盛した。

 そもそも、玉川電気鉄道(後年東京横浜電鉄→東京急行電鉄)が渋谷から玉川まで、路面電車の玉川線を敷設したのは1907年だった。当初は狭軌の1067mmで開業したが、1920年に東京市電乗り入れを考慮して1372mmに改軌している。

 玉川線の終点である玉川の呼称はその後、よみうり遊園→二子読売園→二子玉川→二子玉川園と改称されている。大正期の1924年には玉川から砧(後年砧本村と改称)を結ぶ砧線が開通し、多摩川で採取した川砂利の輸送に貢献した。関東大震災の復興時は東京市電の乙1000型が渋谷から玉川線と砧線に乗り入れ、砧線大蔵駅の側線に設置されたホッパーから砂利を積み込み、復興資材輸送をしていた。

 同時期の1924年には、大山街道(国道246号)が多摩川を渡河するための二子橋が架橋された。そして、二子橋の道路上に単線の併用軌道を敷設した溝ノ口線(玉川~溝ノ口)が1927年に開通。玉電は玉川から二子橋を渡って、神奈川県の溝ノ口まで足を延ばしている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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