横浜の金融街を走る13系統のワンマンカー仕様の市電。「港町十三番地」の歌唱が流れてくるような雰囲気の街角だ。本町四丁目~相生町(撮影/諸河久:1972年3月5日)
横浜の金融街を走る13系統のワンマンカー仕様の市電。「港町十三番地」の歌唱が流れてくるような雰囲気の街角だ。本町四丁目~相生町(撮影/諸河久:1972年3月5日)

 鉄道写真家の諸河久さんが路面電車を撮影するようになったのは56年前の高校生の頃。この時代にカメラなどの大きな機材を背負って全国をめぐるようになった。およそ半世紀前の観光地や地方都市を走った路面電車と街並みは、東京とは異なる文化と土地柄が写し出されていて味わい深い。前回に引き続き夏休み特別編として、諸河さんが高校や大学の学生時代に撮影した約50年前の観光地や都市部の貴重な写真をお届けする。今回は、今年で開港160年を迎える「横浜」を走った横浜市交通局(以下、横浜市電、市電)の路面電車だ。

【路面電車が走る横浜の街は美しかった! 50年以上前の貴重な別カットはこちら(全5枚)】

*  *  *

 全盛時には1日平均の乗客数が約30万人を数えたという。

 かつて、市民にとってまぎれもなく重要な「足」だった横浜市電。桜木町駅を中心に放射状に延び、ガタゴトと揺れながら街から街へと人をつないだ路面電車が横浜から消えて、47年が経つ。

 冒頭のカラー作品は、横浜の金融街・本町(ほんちょう)通りから関内大通りに右折した13系統葦名橋行きの市電を撮影した。プロ機材のリンホフ・スーパーテヒニカVを携行しての撮影で、フィルムは4×5判のコダック・エクタクロームを使用している。ここから横浜港は至近距離で、画面右に写る水兵姿のカップルが港町らしい風情を演出してくれた。

 背景の四角い建物が現存する「横浜銀行協会」で、1936年に竣工している。美しいテラコッタに装飾されたアールデコ様式の名建築だ。戦前の本町通り界隈は横浜正金銀行本店を始めとする主要銀行が店舗を並べる金融街だった。銀行マンの親睦や保養を目的として建てられたのが、この横浜銀行協会だった。

市電滝頭車庫跡を利用した「横浜市電保存館」 往年の横浜市電7両が屋内に静態保存されている(撮影/諸河久:2017年11月19日)
市電滝頭車庫跡を利用した「横浜市電保存館」 往年の横浜市電7両が屋内に静態保存されている(撮影/諸河久:2017年11月19日)

■路面電車開業は全国5番目

 江戸末期の1859年に横浜港が開港してから今年で160年を迎えた。開港当初の横浜は当時「ハイカラ」と謳われた西欧文明の発信地で、その後の国際貿易都市の礎となった。この「ミナト・ヨコハマ」に初めて路面電車が走ったのは1904年7月、全国で5番目の路面電車開業となった。

 第1期線は横浜電気鉄道が敷設した神奈川線で、神奈川停車場前(後年青木通りに改称)~大江橋(後年桜木町駅前に改称)2600mだった。電車線電圧は600V、軌間は馬車鉄道の歴史が無いが、東京を模したといわれる1372mmだった。

 横浜電気鉄道は神奈川線に続いて市内に路線を延伸したが、1921年に横浜市に買収されて、横浜市電気局の経営となった。その後、関東大震災や横浜大空襲など、二度の壊滅的打撃を乗り越えて、戦後は横浜市交通局の経営に改組された。1955年頃には戦前からの懸案だった根岸線と井土ヶ谷線を開通させるなど、横浜市電の最盛期を迎えている。

 1960年代に入ると、他都市と同様にモータリゼーションの荒波に翻弄されて、赤字経営に陥った。ワンマンカーを走らせるなどの経営努力も空しく、1966年から路線縮小が始まり、ハマの街から路面電車が姿を消したのは1972年4月だった。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
「ハマのエース」の登場