昨年12月の全日本選手権では、初めて試合で4回転半に挑戦。ダウングレードながら、手応えを得た。そして迎えた今年2月の北京五輪は、ショート後の練習で右足首を痛め、注射を打ってフリーに臨む。アンダーローテーションでの転倒とはなったが、五輪史上初となる「4A」の文字をスコアシートに刻んだ。

 演技直後、4回転半への挑戦を続けるかについて「もうちょっと時間ください。それくらい今回やりきっています」と小さく笑った。休養とアイスショーを経て、心境の変化があった。

「もう競技会に対して、結果に対して、取るべきものは取れたなと思いますし、そこに対する評価をもう求めなくなってしまったのかな」

アスリートとしての炎

 試合という形へのこだわりが消えている自分に気づいた。一方で、アスリートとしての炎は消えていなかった。

「よりうまくなりたい、より強くなりたい。4回転半も含めて、よりアスリートらしく頑張っていきたい」

 7月19日、決意表明に臨み、「引退」の2文字は使わなかった。競技会へのこだわりが消えても、挑戦心に陰りはない。だからこそ「プロのアスリート」という言葉を使った。

「アイスショーって華やかなエンターテインメントのイメージがあると思うんですけど、もっと僕はアスリートらしくいたい。難しいことに挑戦し続ける姿や戦い続ける姿を見ていただき、期待していただきたいなと思って、この言葉たちを選びました」

 そして課題を掲げた。

「4回転半に関しては、北京五輪ですごく良い体験が出来たと思います。あの時得た知見があるからこそ、今の段階でも『もっとこうやればいい』という手応えがあります。北京五輪の時はもう伸びしろ無いのかなって思ったんですけど、いまは伸びしろをいっぱい感じています。期待しててください」

 そして「いま現在もまだ4回転半の練習を常にやっています」と言うと、目に力が宿った。その言葉は、20歳を前に「30歳になっても、何歳になっても、常に課題を持ち続ける」と誓った、あの時のまま。4回転半の壁に向かって、再び走り出した。

(ライター・野口美恵)

AERA 2022年8月1日号