12歳の時に両親が離婚
戦争映画が救いになる

 その一方で、普通の家族と同じようにトラブルも起きる。夫婦げんか、失業、仲たがい、金銭トラブル……。そんな時、決まって仲裁に入るのが石山だ。だがここでも黒白はつけない。お互いの妥協点を見いだすまで徹底して話し合ってもらう。

「正直に言えば面倒な時もあります。でも面倒なことを避けたら家族にはなれない」

 家族というつながりを持ちつつ、メンバーのスキルをシェアしながら一緒に仕事をする形態も生まれ始めた。

 家族の形態はこの50年で大きく変わりつつある。大家族が核家族になり、今や東京都では単身世帯が50%を超えた。正式な数字ではないものの、孤独死は全国で年間3万人というデータもある。

 そんな時代だからこそ石山は、血はつながっていなくても「意識で繋(つな)がる拡張家族」という概念を広めたいという。Ciftはいうなら“ファミリーネーム”。名字の違う拡張家族がさらに増えることを石山は願う。

「これからの時代の資産はお金ではなく“繋がり資産”。自分の余白を他人に差し出す勇気さえあれば繋がり資産が増え、大抵のことは何とかなる」

 拡張家族的思考は子どものころに育まれた。

 旅行作家の石山和男(65)、ベストドレッサー賞選考委員でファッションプロデューサーのしぎはらひろ子(65)の一人娘として横浜市に生まれる。サンバ音楽をこよなく愛する父の交友関係が広く、自宅には国籍の異なる人たちが常時何人も寝泊まりしていた。石山は彼らと一緒に遊び、宿題も見てもらった。父には「アンジュは地球人」と教えられた。この頃に、血はつながっていなくても一緒に暮らせば家族、という意識が芽生えた。

 母は石山の出産後、時をおかずに海外出張に出かけるほどの仕事師。それでも小3の時に「普通のママがいい」と訴えられ、仕事を辞めた。父や母、そしてゲスト住人たちにたっぷり愛情を注がれすくすく育った石山に、12歳の時に人生の蹉跌(さてつ)が生じた。大好きな父と母が離婚したのだ。

「父と母の愛情の結晶として自分が生まれたと信じていただけに、自分の存在意義を失ってしまったんです。子ども心に無茶苦茶悩みましたね。そんな私を救ってくれたのが戦争映画でした」

 父の影響で子どものころから戦争映画を見てきた石山は、ホロコーストやアウシュビッツを題材にした映画を好んだ。特に生と死の狭間(はざま)という究極の場面で、人間がのぞかせる良心を描く映画に魅せられた。どん底にいた石山を救ったのは、「私は社会のために生まれた」という強い思いだった。

「今考えれば、自己肯定感が欲しいがためのこじつけですね」

 ピースメッセンジャーになる。本気でそう思った。その信念は今でも石山の活動の根源だ。

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大学時代、スケッチブック片手に各国を回る