小4の次男と2人きりの休日。公園でキャッチボールをし、仕込んでおいたミネストローネスープとキャベツのパスタで昼ご飯を作る。「味、薄い?」「うん」「そうか。スープと一緒に食べなさい」(撮影/写真部・松永卓也)
小4の次男と2人きりの休日。公園でキャッチボールをし、仕込んでおいたミネストローネスープとキャベツのパスタで昼ご飯を作る。「味、薄い?」「うん」「そうか。スープと一緒に食べなさい」(撮影/写真部・松永卓也)

「あのシーンだけで対象に興味が湧くし、磯田さんという人がどれだけほかのことに頓着しない歴史オタクなのかがわかる。そういうことに現場で気づくことってなかなかできないんですよね」

 大島スタイルは、どのようにして生まれたのか。

 大島は1969年、神奈川県藤沢市に生まれた。父は映画監督の大島渚。母は女優の小山明子。最初の記憶は鵠沼の家だ。門扉も立派な広い日本家屋。お手伝いさんもいる家を子どもながらに「どこかよその家とは違う」と感じていた。

「台所に電話があって、電話が鳴ると父がバタバタバタ!と走ってきて電話を取る。何回かに一度は怒るんですよ。だから電話が鳴るたびに『ドキッ』としていた」

 父は子どもに甘く、家で怒られたことはない。だがどこか人を緊張させる空気があり、大島は父の母である祖母と6歳上の兄・武と3人、大きな家で身を寄せ合うように暮らしていた。穏やかな性格の武に比べて、大島はきかん坊。祖母には「とっぱ」と呼ばれていた。関西弁でむちゃをする「とっぱもん(突破者)」という意味だ。スイミングに通って水泳に熱中し、勉強もよくできた。

 小学校1年のとき父の映画「愛のコリーダ」が公開され、それをめぐる裁判と騒動が起こった。子どもながらに「お父さんがなにかいやらしいものを作って罪に問われているらしい」と感じていた。学校でからかわれるような年齢ではなかったが、裁判が長引くと、その都度ニュースになり、世間のさざめきが感じとれる。「エロ監督の息子」が重荷になってきた。

「明るかった空が、急に暗くなったというか。『なんでこの家に生まれたんだろう』という感覚は割と長めに続きましたね。中2で『戦場のメリークリスマス』が公開されて、今度は男同士のキスシーンかよ!って(笑)」

 当時の中学生には確かに衝撃的だっただろう。

(文・中村千晶)

※記事の続きはAERA 2021年1月24日号でご覧いただけます。