その理由について「小説の『ある場面』に潜んでいるものの背景を読み解いていくのは翻訳に通じる部分がある」と語る。

「翻訳は、綺麗に仕上がっている服をわざわざほどいてみるような作業なんです。内側にどんな細工がしてあるのか、どんなパーツから成り立っていて、全体をどう構成しているのか。時にはその言葉の由来にまで遡って考えます」

 こうした翻訳家ならではの視点が本書でも光る。鴻巣さんが選んだのは、安部公房、夏目漱石、太宰治など9作品。川上弘美『神様』はじめ現代の作家も入っている。

「同時代の作家は、ある時代を象徴したり、転機になった作品を選びました。『神様』は短編ですが、日本文学の地質を決定的に変えてしまった。いとうせいこう『ノーライフキング』は日本社会の大きな曲がり角に現れた作品です」

 村上春樹『風の歌を聴け』では冒頭に書かれた、ある一文の主語に注目する。

「『僕』の一人称主語で始まり『猿たちは』という三人称主語で終わる文章があります。何気なく見えますが、明らかに翻訳文体の轍がある。村上春樹は日本語まで変えてしまったのです」

 もちろん鴻巣さんばかりでなく、それぞれの選者ならではの読みにも驚かされる。「名場面」を語り合う喜びを、教えてもらうような一冊だ。(ライター・矢内裕子)

AERA 2021年6月7日号