■個性より役になり切る

 作中で出会った阿久津と曽根は、激しくぶつかり合う。報道によって、家族との平穏な日々が壊されることを恐れ、事件について口を閉ざす曽根。阿久津は、「真実を明らかにすることに意義がある」と説得を試みるが、曽根は「面白おかしく記事にして、子どもの未来はどうなるんです!?」と喝破する。

 はたして被害者の心情や生活を乱してまで、事件の真相を報じる価値はあるのか。ここから阿久津は、新聞記者として、事件にどう向き合うべきかを考え始める。

小栗:改めて自分の仕事の意義や向き合い方を問われると、どう答えていいか難しいですよね。僕は小学生のときから俳優の仕事を始めましたけど、当時は本当にシンプルで、有名になりたいとか、内田有紀さんに会いたいなとか(笑)。

星野:めちゃくちゃいい理由(笑)。

小栗:ただ今思うのは、小さい頃からドラマや映画が好きで、ポジティブな影響を受けてきたので、やはり何らかの形で「お返し」はしたいんです。例えば、社会に対して何かのメッセージを伝えるときも、僕は小栗旬として発言するのではなく、役者として作品を通じて主張したいと思っています。「罪の声」のように、さまざまな問いを含んだ作品に一つのピースとして参加して、観た人の価値観や感情に前向きな変化を与えられたら、それは役者冥利に尽きますね。まあ、あくまで意義の一つですけど。一方で、単純にエンターテインメントとして楽しんでもらいたいという気持ちも、もちろんあります。

星野:俳優や音楽をやっていて思うのは、「自分をどんどん消していきたい」ということです。自分の個性を出すよりも、役になり切って自意識やエゴから解き放たれたい。

小栗:うんうん。わかる。

星野:「しっかりその役を生きられたな」と思うときほど、実は演じたときの記憶が残っていなかったりするんです。そういうときはとても気持ちがいいですね。改めてスクリーンで作品を観たとき、すごく新鮮に感じられて、逆に自分が生きた証しがつかめる気がします。音楽でも、ライブで盛り上がりが最高潮に達したときは、自分とお客さん、演奏しているミュージシャンたちの“自他”の境目がなくなる感覚があるんです。だから「自分なくし」が、僕の仕事への向き合い方ですね。

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