「僕は職場の理解があり、恵まれているほうだけど、それでも厳しい」と原田。今後ガイド仲間と環境を改善する方法を考えていきたいという。

 選手としては五輪の夢は果たせなかったが、ガイドとして中澤と共にパラリンピック出場を目指す。

「選手を安全にゴールさせるのが役目ですが、競技者の感覚で選手とチームを組んで一緒に戦っています。2人でゴールするときの喜びは現役時代と違うものがあります」

 パラ選手の活躍の陰には大勢のスタッフの力がある。激しい体当たりを繰り返す車いすラグビーでは、車体の整備や修理を行うメカニックの存在が不可欠だ。日本代表のメカニックを務める三山慧(33)は、前任者がいない中、海外の製造現場で武者修行し、技術を磨いた。

 大学1年生のときのバイク事故で1カ月入院した三山は、病院で現日本代表強化指定選手の官野一彦(37)と出会った。彼が退院後に始めた車いすラグビーの練習を見に行き、ボランティアスタッフになった。

 当時、スタッフができるのはパンク修理ぐらい。それ以外は修理工場に送るしかなかった。

 07年にオーストラリアで開催された国際大会に介助スタッフとして同行した際、日本代表のメカニックを務めたニュージーランドのマイク・ターナーが、割れた車いすの部品を試合後すぐ修理した姿に魅せられ、メカニックを志した。翌年、北京パラリンピックに帯同した後、マイクが勤務するニュージーランドの車いす製造会社「メルローズ」に押しかけ、半年間技術を学んだ。

「修理で溶接するときにも、パイプの厚みや部品の組み合わせを知っていれば確実な作業ができる。半年間の経験は財産です」

 大学卒業後には車いす製造会社に就職して技術を磨いた。その後、車いすの輸入販売を行うテレウスに転職。約10年間、会社員として生計を立てながら、有給休暇などを使って日本代表に帯同してきた。だが、東京パラに向けて遠征や強化合宿が増えてボランティアで支えることに限界を感じ始めた。そこで、3年前に日本車いすラグビー連盟と勤務先で業務委託契約を結んでもらい、仕事として遠征に帯同できるようになった。

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