「当時、日本はバブルでジャパン・アズ・ナンバーワンみたいな時代。アジアに映画?と思われていた。でもあるんですよ(笑)。侯孝賢の他にもフィリピン映画や韓国映画、タイ映画、インド映画など、当時誰も知らなかったアジア映画に力を入れて紹介していました。アジアの監督たちがPFFのことを知っているのは、この時代があったからなんです」(荒木さん)

 侯孝賢から「新しい映画の費用が足りない」と相談を受けたこともある。結局、「ぴあ」がポストプロダクションの費用を出して映画は完成。その映画こそ、89年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲った「悲情城市」だったという、驚きのエピソードも。

 90年代、自主映画を取り巻く環境は大きく変化した。

「アワード」も、それまで大多数を占めていたフィルム作品は激減し、ビデオ作品が急増。また、以前は大学の映画サークル関係者がほとんどだったが、芸術大学を始め様々な大学が映像学科を新設し、映画学校出身者が大半を占めるように。映画祭に集う人も様変わりした。

「昔は映画監督になりたい人がギラギラ集っていたと聞きますが、今はさらっとマイルドですよね。映像技術的にはプロ顔負けの作品も増えて“映画のマネ”がうまくなったからこそ、自分だけにしかできないものを厳しく問われている。でもね、“何か”を持っている人は今も昔も変わらずいて、作品を見れば必ず分かる。その“何か”を言葉で説明するのは難しいけど、数を見れば分かります」(荒木さん)

 現在、入選作品は荒木さんとセレクションメンバーが審査を行っている。そこには厳密なルールがある。一つの作品を必ず3人が見ること。作品を見るときは絶対に最後まで止めないこと。そして主観で選ばないこと。昨年は548本の応募があったが、すべての作品をそのように鑑賞して1次審査通過作を決めた。その作品をメンバー全員で見て、入選作品を討議するのが2次審査だ。入選作が決まるまで、4カ月かかる。

「正直言ってそんなルールで入選作を決めている映画祭は世界でうちだけ。よく驚かれますが、でも手間暇かけないといいものは生まれないんですよ」(同)

 映画そのものを取り巻く環境も大きく変わった。テレビ局が主導し、製作委員会形式で作られる大規模予算の映画ばかりが大ヒットし、単館・ミニシアター系からはヒット作が出にくい状況が続く。ネット配信の映像作品は増え、若い監督が修業できる場はそれなりにあるが、驚くような低予算で作られ、報酬は少ない。そんな今、PFFはどういう存在であろうとするのか。荒木さんは即答した。

「『あなたは間違ってない。とことんやりなさい!』と言い続けたい。映画業界もみんなが疲弊している。お金を生まなかったら無価値と言われる世の中で、自主映画を作るなんて、こんな無駄なことはないんです。それでもひたすら情熱を傾けて作品を作って応募する人たちがいる。何かを生み出す人たちは、この世の中で一番素晴らしい。PFFだけはずっと寄り添って肯定し続けていきたいんです」

(ライター・大道絵里子)

AERA 2018年1月15日号