そして84年には「新しい才能の育成」を掲げ、PFF自体が新人監督を商業映画デビューさせる「スカラシップ」部門が誕生。入賞者にはオリジナルの長編映画を監督するチャンスが与えられた。完成後は普通の映画と同じように一般公開されるほか、字幕をつけてPFFと交流のある海外の映画祭にも広く紹介した。橋口亮輔の「二十才の微熱」は単館上映としては異例の大ヒットとなり、ベルリン国際映画祭などでも高い評価を受けた。2000年代には、内田けんじの「運命じゃない人」がカンヌ国際映画祭批評家週間部門で4賞を受賞。また、石井裕也はエドワード・ヤン記念アジア新人監督大賞を受賞。のちに大きく飛躍する監督たちが、初めて決められた予算やスケジュールの中で自分がやりたいことをどう表現するか学ぶ場となった。99年からスカラシッププロデューサーを務め、監督たちと一緒に作品を作ってきた天野真弓さんは振り返る。

「たとえば海外留学して映画を学び、ジャッキー・チェンの映画が大好きと言う内田監督が最初に出してきた脚本は、成田で大アクションシーンがある大作で、とてもスカラシップの予算規模では収まらないもの。ここから時間をかけて内田監督が作りたいと思うエキスを搾り出すような作業が始まり、登場人物を絞って時間の流れを工夫して組み合わせる、すごく面白いアイデアが生まれたんです。派手なアクションシーンは撮れませんが、それを十分カバーする緻密な脚本を書き上げ、素晴らしいデビュー作になりました」

 脚本が完成して撮影に入るとき、天野さんが監督たちに必ず言うことがあるという。

「『雨が降っても今日撮る予定は今日撮る!』って。プロの現場じゃそう簡単に予定は延ばせない。その覚悟を決めてもらうためですが、2週間ほどの撮影期間なのになぜか必ず雨が降るんですよ。新人監督には厳しい条件ですが、その時に助けてくれるのが熟考を重ねた脚本。監督はアクシデントがあったとき、何が一番大事か判断する力が重要なので。スカラシップは監督たちのステップアップにつながる。それが大事だと思います」

 PFFのもうひとつの柱が「映画祭」部門だ。80年代初頭から一般的な映画祭としても力を入れ、世界的に注目される監督の日本未公開作品を含む特集上映企画を行う「招待部門」が誕生した。フランソワ・トリュフォー、ジム・ジャームッシュやスパイク・リーが来日し、熱狂的に盛り上がった。台湾ニューシネマの侯孝賢(ホウシャオシェン)を初めて日本に紹介したのもPFFだ。

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