「中選挙区時代は、どこかの派閥に所属していなければ公認が得られず、予選も通過できない状況でした」(野田氏)

 93年の初当選時は、河本敏夫氏が率いる河本派に加入し、党公認を得たうえで議席を獲得した。河本派の領袖を引き継いだ高村正彦氏の番町政策研究所(高村派)を2003年に離脱して以降、無派閥を貫いている。

 今の派閥の在りようは野田氏には「ズレ感がある」という。

「かつての派閥はグループ同士のぶつかり合いで、より強いリーダーを出すという緊張感が常にありました。党内で切磋琢磨したいときに、それを後押ししてくれたのも派閥の長でした。今は皆無ですよね」(同)

 派閥の弱体化を実感したのはやはり、小泉政権時だ。野田氏は小泉内閣が提案した郵政民営化法案に反対票を投じた。このため、05年9月の衆院選では党公認を得られなかったが、小泉首相が放った「刺客候補」を破り5選を果たす。

「派閥も派閥の長も機能していない、と私はそのとき感じました。そこから派閥の長は抵抗勢力ではなく、迎合勢力に転じていくんです」(同)

 野田氏は郵政選挙後、離党勧告を受け一時離党を余儀なくされる。復党は06年。第1次安倍政権時だ。その後、自民党の短期政権を経て、民主党が政権を握る。政権交代後も、衆参の「ねじれ」が相まって「決められない政治」への不満が世論に渦巻いた。自民党が政権復帰した12年以降、安倍政権が盤石化するのと対照的に、党内に「物言わぬ議員」がはびこっていく。

 この要因を野田氏は、「議員の意識の問題」と見ている。

「政治生命を懸けて闘うガッツがなくなっているのが問題です」

 野田氏がこう言えるのは、小泉政権下の郵政選挙で党公認が得られなかったときも、選挙を勝ち抜いた自負があるからだ。

「自民党とさえ名乗っていれば国会議員を続けられると思っている人が相当数増えていて、逆らうと野田聖子みたいに冷や飯食うぞ、損するぞと……。ちょっと残念ですよね」

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