「かつて職員会議は、教員同士が意見を出し合って意思決定する機関でした。校長は会議の議決を尊重する、いわば民主主義を体現する場だった。ところが3年ほど前から意思決定の場として使ってはいけないと禁じられ、単なる校長からの連絡事項を伝達する場になってしまったのです」

 府教委が14年6月に出した「学校組織運営に関する指針」がそれ。「校長・准校長のリーダーシップのもとでの組織運営の原則を確認し、学校組織の一体性を確立する」ことなどを目的に「教職員の意見が校長・准校長の権限を実質的に制限することがあってはならない」と定めた上意下達を徹底するガイドラインだ。文部科学省の通知を受けたものであり、大阪に限った措置ではないが、これでは、教員間の自由闊達(かったつ)な議論など望むべくもない。

■自由な卒業式はもうない教育の多様性の否定

 卒業式などの式典も、日の丸・君が代とは関係ない次元で自主性を奪われ、管理が強まっているという。梅原さんは言う。

「かつてはどういう卒業式が3年間の締めくくりにふさわしいかを教員と生徒会で話し合うのが基本でした。卒業生と保護者・在校生が対面するように椅子を配置し、その真ん中の通路で卒業証書の受け渡しをしたこともありましたが、今は証書を校長が壇上で授け与えるという画一化されたスタイルしか許されない」

 生徒の自由な発想と、学校の秩序をうまく融合させてよりよいものを目指す。卒業式や文化祭、体育祭などの学校行事がそもそも何のためにあるのか。高校時代にそんなことを見つめ直す機会を奪われた生徒が大学で教職課程を専攻し、戻ってきた教育現場とは、いったい何を考え、目指す場になっているのだろう。その兆候は、既にある。

 日の丸は軍国主義のシンボルであり、君が代の歌詞は身分制度を固定化する天皇制の永続を願う意味があるのではないか。歴史的にそういう側面があったからこそ、一律に起立斉唱を強制することはアイデンティティーの抑圧につながると異を唱える民がいて、管理する側は既に戦後民主主義を象徴する旗であり、お互いを思い合う歌詞なのだと応酬してきたのではなかったか。

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