大切な存在を亡くすと、精神的、肉体的に大きなダメージを受ける。だが、日常のほんの小さな「何か」が再び歩きだすきっかけをくれる(撮影/写真部・東川哲也)
大切な存在を亡くすと、精神的、肉体的に大きなダメージを受ける。だが、日常のほんの小さな「何か」が再び歩きだすきっかけをくれる(撮影/写真部・東川哲也)

 親、配偶者、子ども、友人、それにペット……。大切な存在を亡くしたとき、痛烈な悲嘆に暮れる。深い悲しみに私たちはどう向き合えばいいか。

 都内在住の主婦A子さん(47)の母(当時66歳)に2007年、胆嚢がんが見つかった。医師は、簡単ではないが、と前置きはしたものの「手術できる」と断言。セカンドオピニオンを考えたが、母は「先生に悪いよ」と拒んだ。

 入院前は食欲もあり元気だった母。初孫であるA子さんの長女の七五三が翌月に近づき、

「着物の上に着せる被布、必ず買ってあげてね」

 と、退院して迎えるその日を心待ちにしていた。

 手術室から出た母は頻繁にのどの渇きを訴えた。翌日も「水が飲みたい」と懇願する母が心配だったが、友人に長女を預けていたA子さんは、夜7時ごろいったん病院を後にする。

 2時間後、携帯が鳴った。母危篤の知らせ。駆けつけると意識はなく蘇生措置が始まっていた。そしてわずか数時間後、母は息を引き取った。「容体が急変した」の一点張りの医師の言葉に納得がいったわけではない。しかし、A子さんも家族もそれ以上の説明は求めなかった。

「何を聞かされたところで母は戻らない。むしろ訳のわからない状況から一刻も早く逃れたかった。それが本音でした」

●母の死語れたのは最近

 その後、A子さんは胃痛など長く体調不良に苦しむ。気持ちも塞ぎ込み、誰にも会いたくない。

「医療過誤じゃないかと追及すべきだった? 別の病院に行けばよかった? 後悔の念がこびりついて取れなかった」
 子育てに追われる中で、体調も気持ちも少しずつ回復していった。しかし、母の死について語れるようになったのは、ここ2、3年のことだという。

 人気の流通ジャーナリストだった金子哲雄さんは難病の肺カルチノイドを患い、41歳という若さでこの世を去った。早すぎる死に衝撃が走っただけでなく、金子さん自ら墓や葬儀を手配し、自著『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(小学館)を死後に出版すべく、亡くなる直前まで執筆した完璧な終活が世間を驚かせた。

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