──新聞の連載エッセーに「認知症になった母を努力しないと愛せなくなった」と書かれていてハッとさせられました。

 私、声が優しいとよく言われるので、みなさん両親にずっと優しくしているイメージを抱かれるようなのですが、実際にはさまざまな思いがありました。母が認知症でどんどん壊れていくことはすごく怖かったし、情けなかったり、目をそらしたい気持ちもあった。

 でも考え方を変えたんです。私は母が大好きだったので、もし認知症にならないまま亡くなっていたら、立ち直れないほどの喪失感だったかもしれない。でも母が少しずつ変容したことで、私のなかで母が少しずつ死んでいった気がします。それは神様か、あるいは母が、私がショックを受けすぎないように、そうしてくれたのかもしれない。あれは母の優しさだったのかもしれない。そう考えたら、母に対しても優しい気持ちになれました。

 いま母がいる仏壇は信友家の様子が全て見える特等席なんです。「おかえり」という安寧の気持ちです。ただ父はいまでも母の話をすると泣くんです。「そりゃ寂しいわ」って。やっぱり夫婦の絆は違うんでしょうね。

──映画には詳しく描かれていませんが、お母さんが認知症を発症されてから介護サービスを受けるまでに間が空いたそうですね。

 実は2年3カ月、空いているんです。父が「わしが面倒をみる、人の世話にはならん」と自分一人で抱え込んでしまったからです。家の恥、という思いもあったように思います。その時期が一番大変でした。母は社交的で家には友人がよく遊びに来ていたのですが、そのころ父は母の友人たちを玄関先で追い返してしまっていたんです。そうなると母は父と二人だけ。しかも父は耳が遠いので母の言うことが聞こえなかったりする。母もイライラして一日中黙っていた。そうすると刺激がないですよね。刺激がないと認知症は進むんです。母は鬱っぽくなり、実家に帰るたびに「悪くなっている」と実感しました。あの時期はかわいそうだったと思います。

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