週刊朝日2022年3月25日号より)
週刊朝日2022年3月25日号より)

「人間は年を取っていくと、どう生きるか、どう自分の人生と向き合うかということを真剣に考えるようになります。そして、だんだん自由が制限されていく。映画の中でもエレネは、親戚とはいえ、全く意見が異なるミランダと一緒に住まわせられる。これはある意味、野党と与党が両極化して対立しているジョージアの今の政治を映してもいるのですが、理解し合えない2人の人間が同じ家で暮らすことになったときに、どうやって互いに理解し深めていくか。そのモデルの一つとして作りました」

 ゴゴベリゼ監督は1928年、トビリシに生まれた。貴族出身でボリシェビキ(ソ連共産党の前身)の政治家だった父レヴァンはスターリンの大粛清で処刑され、ジョージア映画黎明(れいめい)期の女性監督である母ヌツァも10年もの間、強制収容所へ流刑になった。彼女にとって、「幼いころに母と引き離された心の傷は私に一生つきまとう」ものだ。映画では、エレネの母が作ったという流刑になった女性たちの人形を通して、過酷な時代の記憶を伝えている。

 母親の意思を継いだゴゴベリゼ監督の長編デビューは61年の「同じ空の下で」。ソ連体制下で、ジョージアの女性たちの生きづらさを描いた「インタビュアー」(78年)や、第2回東京国際映画祭最優秀監督賞を受賞した「転回」(86年)などが西側でも高く評価された。88年にはジョージア・フィルム撮影所所長に就任。だが、91年のソ連崩壊後、映画制作から長い間離れることに。ジョージアが独立すると翌年から国会議員となり、その後も欧州議会大使や駐仏ジョージア大使など、国の要職に就き国の発展に尽力した。彼女にとって「金の糸」は、27年ぶりの長編映画だ。

 それにしてもなぜ映画制作から離れ、政治的な活動をすることになったのか。ゴゴベリゼ監督はこう明かす。

「ある意味、偶然であり、必然でもありました。私は昔からこの国、民族の運命、政治的な状況に強い関心を持ってきました。ソ連時代の末期、80年代後半にジョージアの国内でも独立運動が高まっていきますが、私にとって決定的な事件が89年4月9日、首都トビリシの広場で起こった独立デモです。そこにソ連が軍隊、武力を使って鎮圧しようとしたのです。何人もの人が亡くなり、私と娘もその場にいて、そこから必死に逃げました。それが大きなきっかけとなって、私は政治的な活動に深くかかわるようになったのです」

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