だが撮影所と街との蜜月関係は、長くは続かなかった。

 撮影所ができた当初は無声映画だった。しかしトーキーが作られるようになると、騒音が問題視されるように。

 満州事変以降、撮影所の周りは次々軍需品の製造工場に転化。特に近くにあった新潟鉄工所が、ディーゼルエンジンを作るため夜中までドカンドカンと音を出した。それで移転が決まった。

 新撮影所は神奈川県の大船。36年の1月4日から10日間にわたって引っ越しが行われた。

 15日の午後10時から閉鎖式。脚本家の野田高梧はその様子を記した。

<撮影所の入口に近いステーヂの正面に掲げてあった「蒲田撮影所」といふ大きな看板を外して、広場の真ん中で燃やし、それを囲んで所員一同所長を囲んで乾杯した時には、女優さんなど(栗島すみ子、川田芳子、飯田蝶子、田中絹代、及川道子、高杉早苗、桑野通子、高峰三枝子、水戸光子…)も、ポロポロ涙をこぼして泣いてゐる人もあった>

 16日朝、全員が撮影所に集合してバスに乗った。16年間で撮影された映画は約1200本だった。

 戦争で蒲田の街は焼失したが、戦後、東口のミスタウン通りなどに映画館が林立。50年代半ばには36館を数えたという。

 しかし一館、一館と姿を消していく。西口側で最後まで残っていた映画館も、昨年廃業。

 蒲田は、羽根付き餃子に代表されるB級グルメの天地に生まれ変わった。(本誌・菊地武顕)

週刊朝日  2020年11月27日号