グラスステージ前に立つ俳優たち (大田区立郷土博物館所蔵)
グラスステージ前に立つ俳優たち (大田区立郷土博物館所蔵)
1930年の正月に撮影所内で羽根突きをする左から川崎弘子、結城一朗、及川道子の3人 (大田区立郷土博物館所蔵)
1930年の正月に撮影所内で羽根突きをする左から川崎弘子、結城一朗、及川道子の3人 (大田区立郷土博物館所蔵)
川田御殿の川田芳子 (大田区立郷土博物館所蔵)
川田御殿の川田芳子 (大田区立郷土博物館所蔵)

 JR蒲田駅の発車サイン音は、映画「蒲田行進曲」の主題歌。実はこの歌、松竹キネマ蒲田撮影所歌なのだ。1920年に開設された撮影所では、恋もあれば暴力もあり。熱い情熱をもって映画史に残る作品を撮り続けた。

【写真】女優の川田芳子

 演劇界に君臨していた松竹が映画業界に進出するにあたっては、撮影所が必要だった。

 そこで1920(大正9)年に開設したのが、松竹キネマ蒲田撮影所。

「撮影所用地募集の新聞広告を出したところ、井の頭公園、国府津海岸、大宮公園、鶴見花月園……それぞれの周辺から申し込みがありました」(松竹経営企画部)

 地主の意見集約状況や売買価格などから、蒲田に決定。現在のJR蒲田駅東口、アロマスクエアと大田区民ホール・アプリコが立つ場所に、約9千坪の敷地を誇る撮影所が造られた。

 当時の蒲田はまだ「村」だったが、最先端の工場を構える企業が後を絶たなかった。初めて和文タイプライターを開発した黒澤商店、最高峰の洋風陶器メーカー大倉陶園、日本で初めてクリスタルガラスを作った各務クリスタル製作所、香料メーカーの高砂香料、日本最初のエレベーター会社である東洋オーチス・エレベーターなどである。

 加えて映画撮影所ができ、スターを一目見ようと連日群衆が押し寄せたため、活気ある「モダンな街」に変貌した。

 22年に蒲田村が町制に移行したとき、石井礒五郎初代町長は撮影所にこう感謝の意を表した。

<「流行は三越から」が古くなって、「流行は蒲田から」(略)偏へに松竹キネマの存在に、価値づけられた結果だと云へるでしょう>

 世界を震撼させた大物も蒲田でメガホンを取った。小津安二郎監督だ。

 小津は助監督時代に、所員食堂のボーイを殴る事件を起こしたことがある。先に注文した大久保忠素監督や自分たちより前に、牛原虚彦監督の席にカレーライスを出したのはけしからん、と。

 色恋や修羅場もあった。

 清水宏監督と田中絹代は「テスト結婚」をした。既に同棲をしていた二人は結婚を希望。しかし絹代の人気が落ちることを懸念した会社が、仮祝言だけ挙げ入籍を待たせたのだ。二人は女塚(現在の西蒲田)に新居を構えたが、2年目に破局。真夏の夜に絹代は素足で逃げ出して、城戸四郎撮影所長に清水の横暴ぶりを訴え、戻らないと叫んで泣いたという。

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