久坂部:そのとおりです。昔なら認知症になる前に亡くなっていたものが、医療が進んだ結果、表面化したという面はあります。昔は寿命を延ばすことが医者の使命だったのに、今では悲惨な延命治療さえある。これは、一般の人と専門家の情報ギャップに負うところが大きいと思うんです。

篠田:それは痛感します。

久坂部:専門家から見たら、死なせたほうがいいのが明らかな患者さんでも、ご家族は死んでいい命なんてないと感じている。確かに命は尊いし、突然死や若くしての死は望みませんが、いろんな命やいろんな死があるのです。長く生きすぎても大変なことがあるということを、声を大にして言いたい気持ちです。受け入れることで介護状況がよくなるのに、諦められずにストレスがたまってしまっている家庭が多いんです。

篠田:年を取ると若いころ、幼いころの感覚に返ることがありますが、大正13年生まれの私の母も戦前の田舎の感覚に戻りましたね。今とは衛生状態も生活水準もまったく違う。母は年を取っても失禁したことないんです。なぜかというと、外でトイレがなくてもその辺、駐車場の隅とかで用を足してしまうから。

久坂部:確かに現在は、設定基準が高くなって、窮屈になっているところはあります。たとえば、認知症の入院患者さんがティッシュを食べてしまうことがある。それを「ダメだ」と言いますが、ティッシュを食べても死にません。パジャマのまま外出してしまったとしたら正常に戻そうとしてイライラする。言われたほうも腹が立ちますから、お互いがイライラすることになってしまう。基準を緩めてしまっている家庭のほうがうまくいっているんです。それぞれの家庭はその家庭の介護しか知りませんが、専門家はたくさん知っている。だから基準を緩めたほうがいいとわかるんです。私はそういうことを伝えていきたいですね。

篠田:認知症になると今とは全然違う生活史の部分が出てくることがありますね。

久坂部:高齢になると体力が落ちるように、自制心も落ちるんです。我慢や常識の余力がなくなるのは自然なことですよ。

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