葵祭の日、つまり五月十五日が誕生日の私は、京都に棲(す)みついて以来、誕生日は京都じゅうの人に祝ってもらっているようなにぎやかな気分になっていました。でも今年は、コロナのために、京都もいち早く葵祭の行列はないと決まったようです。来年の誕生日は、あの世で、先に逝ったなつかしい人々とにぎやかにしようと、(あっ)向こうでは死んだ日が誕生日になるのだった。さあ、いつのことやら……つくづく、もうこの世に何のみれんもありません。あの世にたいした期待もありません。棺桶(かんおけ)に原稿用紙やペンを入れられるのは断りますが、もし向こうでそれらが買えるなら、やっぱりそれを手に入れて、ものを書くでしょう。また、たちまち、あちらでも百歳近くになることでしょう。

 ヨコオさんは、近頃、絵かきの自慢をしたがり、小説より絵の方が大変だとしきりに言います。絵かきは頭の中を空っぽにして、指先に脳を移動させ、その状態を画家は無になるというより空になるのだといわれます。画家は筆を手にした瞬間から、脳の支配を離れ自由になるといわれますね。

 ヨコオさん、小説家も書いている途中から、いや、書きはじめた瞬間から、脳の支配を忘れ、無我の境地に恵まれることがあります。すべての時ではないけれど、そんな時が全くないとは言えません。そういう時の作品は、誰がどう評価しようが、本人にとっては上等の作品だと信じます。私はまだ、そう思いこむ自分の作品は書けていません。残された自分の時間に、ぜひぜひ、それに出逢(であ)ってからあの世に旅立ちたいと憧れています。

 私もヨコオさんもコロナウイルスにはかかりません。私は観音さまが守ってくれているし、私がヨコオさんの無事を祈っているからです。うちの観音さまの御利益の強さは、美輪明宏さんが誓言してくれていますから大安ですよ。こうなればしぶとく生きのびて、誰にもわからない絵や小説を書き残してやりましょう。

 もちろんあの世でも仲よくして描き書きつづけましょうね。はい、おやすみ。

週刊朝日  2020年4月24日号