最近、小説家で、肉体、肉体とやかましく言う人がいますが、画家のような肉体を所有することは不可能です。観念としての肉体論です。画家は筆を手にした瞬間から、脳の支配から離れて自由になります。小説家と画家は全く別のものです。比較することもないように思います。三島さんも肉体なんかに興味を持たなければ、肉体をいためたり、破壊などしなくてよかったように思います。文学で絵画はできません。でもこういう三島さんの無いものねだりに挑戦するその精神というか魂こそ未知への挑戦ですかね。僕は文学の素人ですから、三島さんの深淵(しんえん)な創造的な魂のことはよくわかりません。

 僕にとっては逆に言葉はよくわかりません。絵は錬金術、呪術、魔術的な怪しい世界の一角に位置しています。僕は小説家ではなく画家でよかったとつくづく思います。でも本心を明かせば画家になる気はなかったのですが、絵を描くのだけは美味(おい)しいものを食べたり、遊ぶよりも好きだったのに、運命がなりたくなかったプロに仕向けました。アマで趣味で描くのが一番幸せです。だから、如何(いか)にアマ精神を通すかです。セトウチさんも尼(アマ)です。

■瀬戸内寂聴「コロナ禍しぶとく生きのび 残る作品を」

 ヨコオさん

 またまた、大変な世の中になってきましたね。全く、戦争には、さすがに人間もこりにこりたので、もうすまいと思っていたら、戦争以上に怖いことが生じました。

 新型コロナウイルスという化け物が現れ、人間世界に住みついたのです。これにかかればあっという間もなく重症に至り、死んでゆく。そんな実例を、人気者で老人から子供たちにまで好かれていた志村けんさんの身の上に見せられ、私はさすがにぞっとしておなかを冷やしました。しかもこの化け物は、高齢者が大好きで、これに取り付かれた高齢者は、みんな死んでゆくとか。三十歳も若く見えても、実は高齢者にまちがいないヨコオさんも、ぞっとしてください。

 可哀想に志村さんはまだ七十歳でした(でも、七十歳って、もうれっきとした高齢者よね)。毎晩、多勢をつれて呑(の)み歩いて愉(たの)しいにぎやかな日を送っていたという事ですが、なぜか独身でお子さんもいなかったそうですね。まだ自分が死んだということがわからず、どうして今夜はいつもの連中が一人も集まってこないのかなと不審がっているかもしれないですね。

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