林:梅沢富美男さんはあれでスターになったんですよね。

本多:そう。浅草木馬館で大衆演劇をやってた梅沢が、これでテレビにデビューしてね。

林:社長の自伝(『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』)を読ませていただいたら、もともと社長は映画の俳優さんでいらしたんですね。札幌にいらしたころ、「まれに見るイケメン」と言われて騒がれて、子どものときから「俳優になるんでしょう?」ってみんなに言われてたそうですね。

本多:高校演劇から始めて、北海道放送の演劇研究会に入って、芝居を2年くらい勉強してたんだけど、たまたま新東宝のニューフェースのオーディションに受かったんです。

林:当時、新東宝ってどなたがいらっしゃったんですか。

本多:先輩では天知茂とか宇津井健ちゃん、丹波(哲郎)さん、高島忠夫とかがいましたね。ちょっと後輩では菅原文太、吉田輝雄とか。女性では同期が三ツ矢歌子……。彼女も亡くなったけどね。

林:きれいな方でした。

本多:ところが、私が26歳のときに新東宝がつぶれちゃって、食べられないから下北沢で小さなトリスバーをやったんです。カウンターバーで8人しか座れないんだけど、それがたまたま当たりましてね。次の年に2軒目、その次から3軒、4軒、5軒とつくって、40歳でやめるまでに50軒つくったんですよ。当時、一晩の売り上げが800万くらいあった。

林:えっ、一晩で800万も!?

本多:うん。店はみんな人にまかせて、私は毎日銀座で飲んで歩いてました。でも、札幌の演劇研究所にいたとき、東京から来た長光太という講師の先生が「小さくても自分たちの劇場が欲しい」ってよく言ってたんです。昭和28年ですから、札幌に劇場がなかったんですよ。芝居をつくっても発表する場がない。「よし、劇場をつくってやろう」と思って。だから最初から劇場をつくろうと思ったんじゃなくて、儲かったからやろうと思ったんです。若いときの夢をかなえたいと思って。

(構成/本誌・松岡かすみ 編集協力/一木俊雄)

週刊朝日  2020年4月10日号より抜粋