「痛い」は、「尿道結石は死ぬほど痛い」というように、専ら身体に関する単語として認識されてきたはずである。

 ところがいつの頃からかわが日本国民は、「痛い」の用法を大きく変化させてきたのである。たとえば、

「アイツ、痛いよね」

 というとき、発話者はアイツのどこが痛いとか、アイツを見ていると自分のどこかが痛くなるとか言っているのではないんである。

 あくまでも、

「アイツの存在自体が痛い」

 のである。

 この「痛い」には、本来の意味とは異なるニュアンスが多分に盛り込まれているのだが、それは「痛車」といった使い方に端的に表れているだろう。

「痛車」とは、ボディー全体に漫画やアニメのキャラクターの絵をでかでかと描いてある車のことだが、「痛車」は単に「痛ましい車」という意味で使われているのではない。

「空気が読めていない」「勘違いしている」「外している」「気づいていない」といった、冷笑的なニュアンスが多分に含まれているのだ。つまり、

「アイツ、痛いよね」

 と言うとき、発話者は周囲の人に向かって、

「彼は自分がやっていることや言っていることが、世の中とズレていることに気づいていないよね」

 と同意を求めているのであり、同時に、自分たちは世間様というコードから外れていないよね、と確かめ合っているのである。

 大センセイ、「痛い」をこのように使う人のことを、どうしても愛することができない。もちろん、精神的な意味で。

週刊朝日  2019年5月3日‐10日合併号

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山田清機

山田清機

山田清機(やまだ・せいき)/ノンフィクション作家。1963年生まれ。早稲田大学卒業。鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(第13回新潮ドキュメント賞候補)、『東京湾岸畸人伝』。SNSでは「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれている

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