「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」

 川満さんがこう語る。

「陛下は火炎瓶を投げつけられても怯むことはなかった。日程の変更は一切しませんでした。陛下の沖縄への格別な思いは本物だったのだと知らされたものです」

 以来、陛下の沖縄訪問は11回を数えた。昨年3月、天皇として最後となる訪問時も、川満さんやかつての豆記者たちが宿舎のホテルで出迎えた。両陛下は「お迎えありがとう」「豆記者さんを続けて下さいね」などと語りかけた。その声を聞いて、64年に中学2年で豆記者を務めた玉城米子さん(69)は当時のことを鮮明に思い出したという。

 玉城さんがこう話す。

「静養先の軽井沢を散策した時に、私は漆で顔がかぶれてしまいました。美智子さまから『どうなさったのですか』と尋ねられましたが、恥ずかしくて何も答えられず、うつむいてしまいました。『お大事にしてくださいね』ともおっしゃって頂きました。小さな声ですがはっきりとした、どこか別世界から聞こえてくるような気がしたものです。そのお声の感じが年月を経たいまも変わることがありませんでした」

 玉城さんは、ひめゆりの塔の近くで生まれ育った。激戦地となった南部の集落の一帯には、空き地があちこちに点在する。敷地内にコンクリートブロックなどで造られた小屋があり、中の小さな祭壇に位牌や香炉が置かれている。沖縄戦で家族全員が亡くなり、近隣住民が供養し続けている、こうした一家全滅の屋敷跡がいまも残る。玉城さんが言う。

「親から『あそこのうちはもう誰もいないよー』と聞かされ、そんな戦争の傷跡が子どものころから当たり前の光景でした。近所のおじさんが畑を耕作していたら不発弾が爆発して、足が吹っ飛んだとか……」

 玉城さんは少女のころ、日本の国内はどこも同じような境遇だろうと漠然と思っていたという。しかし、豆記者として東京を訪れると、沖縄とのあまりの格差にただ驚くばかりだった。

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本土と比べて平等に扱われていない