沖縄県豆記者交歓会元会長の川満茂雄さん(撮影/本誌・亀井洋志)
沖縄県豆記者交歓会元会長の川満茂雄さん(撮影/本誌・亀井洋志)
1964年、第3次の豆記者、玉城米子さん(撮影/本誌・亀井洋志)
1964年、第3次の豆記者、玉城米子さん(撮影/本誌・亀井洋志)

 退位が近づくにつれ、世間の皇室への関心が高まっている。天皇皇后両陛下の心中を理解するうえで欠かせないキーワードの一つが「沖縄」だ。両陛下のこれまでの歩みを関係者の証言とともに振り返った。

 陛下が沖縄に関心を抱くようになったきっかけの一つは、沖縄から来た「豆記者」の子どもたちとの交流だったといわれている。豆記者とは、沖縄と本土の小中学生を対象にした交歓会だ。沖縄の生徒は本土を、本土の生徒は沖縄を訪ねて“取材”することによって、相互の親睦を図ることが目的だ。1962年にスタートし、現在も続けられている。豆記者交歓会を最初に企画・考案したのは、東京で教師をしていた山本和昭さんだ。

 当時、皇太子だった陛下は毎年夏にやってくる沖縄の豆記者たちを東宮御所や静養先の軽井沢に招き、沖縄での生活や学校の話などを聞いた。戦時中、住民を巻き込んで軍民合わせて20万人が犠牲となる地上戦が行われた沖縄では、県民感情は厳しかった。当時は米軍の統治下でもあり、皇室の訪問は実現していなかった。

 沖縄県豆記者交歓会で会長を務めていた川満茂雄さん(72)がこう語る。

「帝国陸軍の沖縄守備隊司令官が『一木一草に至るまで戦力化すべし』と命じ、実際に島は焦土と化した。ですから、皇室や本土に対する県民感情は複雑で、なかには引率を断る先生もいたほどです。そんな状況下でしたが、両陛下は優しいお父さん、お母さんのように接して下さり、沖縄の子どもたちの心をほぐしてくれたのです」

 両陛下は施政権返還後の75年7月、沖縄海洋博開幕のため皇太子夫妻として初めて沖縄の地を踏んだ。沖縄訪問は時期尚早と制止する声に対し、陛下は「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民の中に入っていきたい」と語った。だが、南部戦跡に向かい、糸満市のひめゆりの塔に着くと石どころか火炎瓶を投げつけられた。その夜、陛下は次のような談話を発表している。

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「あそこの家はもう誰もいないよ」戦争の傷跡が日常だった