〝洋楽三昧〟だった自身の音楽歴を自問自答し、小唄に挑戦したという柳原陽一郎
〝洋楽三昧〟だった自身の音楽歴を自問自答し、小唄に挑戦したという柳原陽一郎
柳原陽一郎名義としては通算7作目のオリジナル・アルバム『小唄三昧』(SWEETS DELI RECORDS SDR―008)
柳原陽一郎名義としては通算7作目のオリジナル・アルバム『小唄三昧』(SWEETS DELI RECORDS SDR―008)

“やなちゃん”こと柳原陽一郎(元たま)の5年ぶりのオリジナル・アルバム『小唄三昧』が実に痛快だ。フォーク、ロック、カントリー、ブギ・ブルースにアイリッシュ・ダンス・チューン。はたまた添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)風演歌にドドンパ歌謡など、多彩な音楽展開だ。

【柳原陽一郎名義としては通算7作目のアルバム『小唄三昧』ジャケットはこちら】

 ユーモアやウィットに富み、風刺や皮肉のきいたトピカル・ソング、プロテスト・ソング、市井の人々のささやかな喜びや悲哀を描いた人情味あふれる歌詞を飄々と歌う。

 柳原が知久寿焼、石川浩司とたまを結成したのは1984年。当時は柳原幼一郎と名乗り、ピアノ、アコーディオンなどキーボードを担当。たまは86年に滝本晃司を加えて4人組になった。

 89年にテレビ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」に出場し、5週連続で勝ち抜き、第3代グランドイカ天キングに。それを契機に翌年、柳原の作詞、作曲による「さよなら人類」でデビューした。オリコン初登場1位となり、60万枚近い売り上げを記録。NHK紅白歌合戦にも出場し、「たま現象」と呼ばれるブームを巻き起こした。

 柳原は94年からソロ活動を始め、翌年にたまを脱退。98年以来、柳原陽一郎としてソロ活動に専念している。多彩な音楽性を加味したオリジナル曲や洋楽のカヴァーに取り組み、アルバムを出すごとに音楽的な変化を見せ、ロック・バンドやジャズ・ミュージシャンとの交流も深めてきた。その足跡はデビュー25周年記念のベスト・アルバム『もっけの幸い』(2015年)に要約されている。

 今回の『小唄三昧』は、11年3月11日の東日本大震災をきっかけに生まれた「ほんとうの話」(13年)以来。興味をそそられるのは表題の“小唄”とのかかわりだ。もともと柳原はザ・ビートルズ、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、ザ・バンドといった英米のロックに傾倒してきた。それが、映画『流れる』(成瀬巳喜男監督・1956年)の挿入歌に感動し、『近松物語』(溝口健二監督・54年)を見て“小唄”のようなイメージのエレジーを書きたいと思い始めたという。

 さらに、12年にオルケストラ・リブレによるクルト・ワイルの音楽劇『三文オペラ』に参加し、全楽曲の訳詞を担当したところ、そこに描かれた民衆のたくましさに興奮。足尾銅山鉱毒事件を背景に“虐げられている民衆”をテーマにした演劇『明治の柩』にも刺激を受け、“足尾、水俣、福島、そして沖縄が、中央権力の横暴に苦しめられている場所として繋がった”という。

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小倉エージ

小倉エージ

小倉エージ(おぐら・えーじ)/1946年、神戸市生まれ。音楽評論家。洋邦問わずポピュラーミュージックに詳しい。69年URCレコードに勤務。音楽雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン(現・ミュージックマガジン)」の創刊にも携わった。文化庁の芸術祭、芸術選奨の審査員を担当

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