その頃の学生運動と言えば、東大安田講堂陥落(69年)を境に左翼が急速に退潮。だが、法政大は新左翼「中核派」の拠点とあって運動がなお活発だった。山平氏らはもっぱら、日学同の拠点だった早大など他大学で活動していたという。

 山平氏らが訴えたのは戦後体制打倒、自主憲法制定、自主防衛確立、北方領土奪還、反自民……。

「ベトナム反戦運動、60年安保闘争、三里塚闘争は本来、右翼がやるべき運動だったのに左翼に取られた。その点、日学同は対米自立で、既成右翼と違った。そこが魅力的だった」

 と山平氏は語る。日学同は当時、民族派学生運動の2大勢力の一つ。もう一つの勢力が先述の全国学協だった。

 全国学協のメンバーらはその後、社会人組織を結成、改憲団体「日本を守る国民会議」で事務局を握ると、日本会議の結成(97年)へと運動を進めた。今や、安倍政権に近く、国政に一定の影響力をもつまでになった。しかし、山平氏は首をかしげて言う。

「日本会議に詳しくはないが、彼らもむかし、『YP体制(ヤルタ・ポツダム体制=戦後体制)打倒』を言っていたわけですよね。その当時から考えると、体制肯定、政府と一体というのは、ちょっとおかしいですねえ」

 再評価の高まりを受け、二十一世紀書院の蜷川正大(まさひろ)社長はこう話す。

「民族派の歴史を語る上で、最良の書。再び注目されたことは好著の証しだ」

週刊朝日 2017年7月21日号