俳句を一緒にやっていたこともあり、ご自宅がある目黒区まで私の車で何度か行きましたが、絶対に自宅の前で降りない。「その角でいい」「ここでいい」と離れたところで降りるのです。あるとき、車の5メートルくらい先に人が立っていました。「変な人が立っているから降りないほうがいいわよ」と私が言うと、渥美さんも「あ、そうだね」って言うんです。車を20分くらい走らせ、また戻ってきたらその人はいなかった。「今なら大丈夫」と渥美さんは降りたのですが、実は奥さんだったのです。そろそろ渥美さんが帰ってくるので待っていたんです。渥美さんも、目の前にいたのが奥さんだということを当然知っていながら何も言わなかった。この話は、渥美さんが亡くなってから渥美さんの奥さんにお聞きしたのです。

 仕事と家族を見事に切り分けていた人でした。旅行も誰にも内緒で行くのです。しばらくしてから「タヒチの女の人は頭に花を付けているんだね」とか言ってタヒチに行っていたことを初めて教えてくれるのです。私、悔しいから「秘密主義者」と言っていました。

 2カ月近く音信不通のときがありました。「どうして連絡くれなかったの。秘密主義者。女の人を連れて温泉に行ってたんでしょう」と何度も同じことを聞くと渥美さんは目に涙いっぱいためて帽子を脱いで、笑いながら「お嬢さん、本当に馬鹿ですね。温泉になんか行っていません」と言いました。後でわかったのですが、がんの治療で入退院を繰り返していたのです。

 なぜあのとき涙を浮かべていたのでしょうか。本当におかしかったのでしょうね。この人は本当にのんきな人だと思ったのかもしれません。逆に、自分ががんであることを隠し通せたことがうれしかったのかもしれません。亡くなる数日前、留守番電話がありました。「お嬢さんはお元気ですね。僕はもう駄目です。お嬢さん、元気でいてください」と。あの人、しょっちゅう死ぬ、死ぬと言っていましたし、若かったときの結核手術で肺が一つ足りなく体が丈夫でないことも知っていましたが、本当に亡くなるとは思いませんでした。

 あの小さな目で世の中のことをよく見ていた人でした。ご自身の病気もあり、寅さんをいつまで続けたらいいのか悩んでいたと思います。でも「寅さんをやめる」と自分から言いださなかった。兄ちゃんは寅さんが大好きだった。みんなに笑ってもらうのが大好きだったんです。

週刊朝日  2016年8月12日号より抜粋