「昭和天皇実録」を読み解くにあたっては、終戦に至る天皇の判断や、戦争責任問題の検証は避けて通れない。ノンフィクション作家の保阪正康氏(74)は、44歳まで大元帥だった「軍人」天皇に、好戦主義者でも和平主義者でもないリアリストの顔を見た。天皇の苦悩から、国の政体と天皇制が合体することの危うさが透けて見える。
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昭和天皇は好戦主義者でも和平主義者でもなく、皇統の維持が基本的な立場だったと考えています。できれば戦いたくはないが、皇位のため必要なら戦争もするし、平和なほうが皇位を守れるなら平和を選択するということです。
1941(昭和16)年の対米開戦に至る過程で、天皇が初めは「戦争は嫌だ」と消極的だったのに、しだいに開戦を受け入れていくのは軍事指導者が執拗に「戦わなければ国は存立しない、皇位を守れない」と説得したからでしょう。
実録では41年9月6日の御前会議で昭和天皇が祖父・明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」を読み上げ、戦争に距離を置いていた姿勢が強調されている。12月1日の御前会議でも、原嘉道・枢密院議長に「なるべく早期に戦争を終結することを考えておく必要がある」と天皇の意思を代弁させた。嫌だ嫌だと考えながらも、戦争を決断せざるを得ない立場になっていくことがわかる。
敗戦後の退位論については、天皇自身はただの一度も退位の意思を示したことがないという前提で実録は編纂(へんさん)されています。
これまで、戦後に昭和天皇が退位について発言したのは3回あったとされていました。1回目が1945(昭和20)年8月29日、木戸幸一内大臣に「自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか」と語ったことが『木戸幸一日記』に書かれています。2回目は48(昭和23)年11月前後から12月にかけ、東京裁判の判決が出て、7人のA級戦犯が処刑されたころ。3回目は52(昭和27)年4月のサンフランシスコ講和条約発効のころと言われていました。
しかし実録では、2回目は46(昭和21)年3月6日、新聞報道を受けて「現状ではその御意志のない旨をお伝えになり」とある。3回目が48年7月9日、外国の新聞雑誌で、東京裁判の判決か、来る8月15日を期して、天皇の退位が行われるであろうと報道されたことに対し「天皇として留まり責任を取られる旨の御意向を示される」と書かれている。天皇の側からは一度も退位を言っていないことになっている。
皇太子(今の天皇陛下)は未成年でしたから、自分が退位すれば摂政を立てなければならなくなる。高松宮は軍人でもあったので、摂政をさせたくなかったのでしょう。
それに、本人はもともと最初から退位するつもりはなく、どんな時代になっても皇統を守り抜く強い信念があったと思います。皇統を守るため戦争をしたが、とんでもない間違いであったから、これからは平和で生きるしかないという確信。「戦争か平和か」という二元論的な分け方ではなく、そのときそのときの選択肢だったと思います。
天皇には君主にしかわからない言葉の使い方がある。たとえば戦争責任という言葉を使わない。一度その言葉を使うと、行動を伴う、つまり退位しなければならなくなるからです。だから実録も戦争責任という言葉をあらかじめ排除して編纂されている。
しかし、それは天皇の側の問題。私たち国民の側からみれば、天皇に限定的な戦争の責任はあるに決まっています。開戦責任、終戦責任、国民を死なせた責任、過酷な負担を強いた責任など、いろいろある。
昭和天皇自身はとくに「開戦責任」と「終戦責任」を意識し、道義的や倫理的に国民に迷惑をかけたという贖罪(しょくざい)意識はあったと思う。ただ国際法や政治上の責任はなかったとも確信していたのではないか。自らは立憲君主だったから臣下には責任があっても自分は問われないと考えた。実際、国際法上も政治的にも責任を問われなかった。
先の戦争で天皇は、本当の戦況を知らされていなかった。明治憲法下の天皇主権にもとづく天皇制が、軍部の専横のもと形骸化していたからです。国の政体と天皇制が合体することの危険を明治憲法と天皇の行き方が教えてくれた。そういう教訓をくみとるなかで、戦争責任についても論じねばならないと思います。
※週刊朝日 2014年10月17日号より抜粋