各雑誌の皇室カメラマンたちが集まり、撮影の難しさや苦労を語った。参加したのは、瓜生浩氏(80)・元学研カメラマン、河崎文雄氏(70)・光文社「女性自身」カメラマン、高野俊一氏(69)・元サンテレフォト写真部長、島田啓一氏(65)・元新潮社写真部長、鈴木鍵一氏(60)・光文社「女性自身」カメラマン、現役雑誌カメラマン(52)。司会は岩井克己氏(67)・元朝日新聞編集委員。

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岩井:昔は、継続的に皇室をウオッチするカメラマンがいた。天皇・皇族方に仕える侍従や宮家職員、皇宮警察と顔見知りで、連帯感や家族的な雰囲気があった。いまや「皇室カメラマン」が減り、事情も変わった。現役の苦労は伝わってきますか。

島田:いま読者が望むのは妃殿下やお子さまの話のようです。それがなければ、買ってくれません。

鈴木:05年から現在まで光文社の「女性自身」で皇室取材を続けています。5月の徳島県訪問も、雅子さまは同行せず皇太子さまの単独公務です。そのためか雑誌から取材は出なかった。

河崎:おひとりだとね。

瓜生:それこそ皇室の存在価値、という話になる。

岩井:皇室報道では、お妃ファッションも読者の楽しみのひとつです。雅子妃ご不在では、報道する側も困る。最近は、秋篠宮家眞子さま佳子さまにスター性が出てきたが、やはり雅子さまの不在は大きい。

瓜生:いまの状態ですと、雅子さまの写真集は何ページも作れなくなる。絵柄がどれも同じだからグラビアも組めないと思います。

 
河崎:流れでお話しすると、美智子さまも皇太子妃時代には、葉山御用邸や軽井沢、奥日光でご静養に入るなど、表に出たくない時期があった。当時は、香淳皇后や高松宮妃など絶対的な存在がご健在で、美智子さまもご苦労なさったようです。どこから構えても、痩せた写真ばかりでした。皇后となってからは、お顔も戻りましたね。

岩井:ところで、河崎さんは、戦争をひとつのテーマに皇室を撮影してきた。昭和50年に当時の皇太子ご夫妻は、海洋博出席のために沖縄を訪問しました。ひめゆりの塔に立ち寄った際に起きた火炎瓶事件に河崎さんは、目の前で遭遇したそうですね。

河崎:そのときは、皇太子ご夫妻が、ひめゆりの塔の壕の前で説明を受けていました。気温が34・5度の猛暑のなか、報道陣もダレて雑談をしていると突然、バーンとなった。火炎瓶がおふたりに投げられたんです。はっと確認すると、持ってきたカメラのフィルムはどれも残り10枚程度。同行した皇室ジャーナリストの松崎敏弥さんのカメラを借りてシャッターを切りました。

瓜生:河崎さんの目の前で、犯人が捕まって。

河崎:周りが「両殿下、ご退避、ご退避」と叫びながら両殿下を車へ連れていく。10秒、20秒の間ですが、妃殿下と私もぶつかるなど現場は混乱しました。

岩井:両陛下は被災地や戦争の惨禍や傷痕が残る地にひたむきに足を運んでおられます。

河崎:人びとと真摯に対話をする姿を実際に見て、我々は感動する。現場のカメラマンが共感して撮影に挑まなければ、「スクープ」は生まれません。

岩井:戦後は、昭和天皇が大元帥から人間天皇へと変わり、宮内庁も皇室への「親しみやすさ」をアピールしようと考えていた。そこに、美智子さまというヒロインが登場して、皇室の雑誌報道という一時代が築かれたが、それも終わりつつあるような気がします。

 
高野:美智子さまは、皇室の宝でした。

瓜生:平成5(93)年に、日本雑誌協会が「ひかり輝いて」という現皇太子ご夫妻のご成婚記念の写真展を全国で開いたときは、会場が人であふれた。

岩井:ヒロインの後継者が現れたと思ったが。

瓜生:あのまま雅子さまが表に出て、人気が持続すればよかった。それにしても、取材規制が多すぎる。

岩井:撮影は取材を希望する媒体の中から代表の1、2社に制限される。

鈴木:代表取材でも撮影時間は1分程度。「(会場に)お入りになってから、ここの位置にいらしたらシャッターを切ってください」と言われる。訪問先の県庁の広報が「はい」と我々の肩をたたいて、終わりですよ。

河崎:お元気なころは、この場所ではおもしろい絵が撮れない、とどんどん主張したものです。

現役雑誌カメラマン:私も川嶋紀子さんのご婚約のころから、いまも現役で現場に出ています。代表撮影になると、各社の希望をくみ取った写真を撮る必要がある。女性誌は、皇后さまやお妃のファッションを望むから「女性中心の構図」を、男性誌は天皇中心の構図を望む。各媒体への配信が前提ですから、1分程度の撮影時間では無難な絵を抑えることに追われます。納得いくまで粘った渾身の一枚など撮れません。

週刊朝日  2014年7月18日号より抜粋