表彰台でガッツポーズを見せる三宅義信 (c)朝日新聞社 @@写禁
表彰台でガッツポーズを見せる三宅義信 (c)朝日新聞社 @@写禁

 第二次世界大戦の敗北という未曾有の国難から日本は再び立ち上がった。1964年の東京五輪は、その象徴的な出来事だった。東京五輪日本勢で金メダル第1号になった重量挙げの三宅義信は当時をこう振り返る。

 金メダルしかない。24歳の陸上自衛官は、その一念で東京五輪を迎えた。

 三宅義信は4年前、五輪初出場だったローマでは金メダル候補に挙がりながら、銀メダルに終わった。東京五輪までの4年間は、苦しみすら感じた。「ほとんど眠れない時期もあった。動悸も激しくなりました」。それなら寝なくても大丈夫なようにしようと、比叡山に登って座禅を組み、滝に打たれて修行した。

 五輪直前の仕上げを終えると、「できることはすべてやった」と開き直れた。当時では珍しく研究熱心な選手で、高級なカメラを購入してフォームを入念にチェック。多い日は1日100トンを挙げた。

 大会2日目に登場すると、9回の試技すべてを成功させた。プレス、スナッチ、ジャークの計397.5キロは世界新記録。堂々たる金メダルだった。両親は家畜を売って旅費をつくり、宮城県村田町から東京へ駆けつけていた。その目の前で披露した「パーフェクトゲーム」(三宅)だった。

 これが東京五輪の日本勢金メダル第1号。三宅がしっかり期待に応え、日本選手団に勇気を与えた。日本は計16個もの金メダルを獲得した。

 続くメキシコ五輪でも頂点に立ち、弟の義行も同じ階級で銅メダル。史上初めて、兄弟が同時に表彰台に立った。快挙の裏には母の重い言葉があったという。

「母は私の力を知っていたし、勝つのもわかっていました。だから『弟の面倒をしっかり見ろ。そして表彰台に上げてやれ』と言われました。一方で弟には『兄ちゃんを助けてやれ』と言っていたそうです」

 現役引退後は、多くの選手を育ててきた。自衛隊体育学校の校長も務めた。五輪金メダリスト、そして自衛官としての自覚やプライド。重すぎるほどの責任を常に背負って生きてきた。

「正直言って苦しかったですよ。でもプレッシャーに耐えて、子どもたちに夢や希望を与えることが、五輪で金メダルをとった選手の役目ですから」

 現在、NPO法人「ゴールドメダリストを育てる会」の理事長として、自らの経験を伝える活動に励む。「最近は少し病気になったりしましたが、この先は自己管理に留意しながら、7年後の東京五輪を迎えたい。五輪は私の人生です」

週刊朝日  2013年9月27日号