決勝で韓国人選手をねじ伏せた吉田義勝(右) (c)朝日新聞社 @@写禁
決勝で韓国人選手をねじ伏せた吉田義勝(右) (c)朝日新聞社 @@写禁

 1964年の東京五輪は戦後復興の象徴的な出来事だった。その祭典で獲得した金メダルを紛失した日本選手がいた。その後の顛末を本人に聞いた。

「日本中が注目していた五輪での優勝ですから、それはうれしかったですよ」。遠い目で振り返ったのは、レスリングのフリースタイル・フライ級で金メダルに輝いた吉田義勝だ。

 思い出すのは恩師・八田一朗さんとの猛練習だ。吉田は五輪イヤーの日大4年時、八田さんに目をかけられ、初めて日本代表に名を連ねた。八田さんとの思い出は尽きないが、優しさが心に残っている。

 東京五輪直前、過酷な減量に加え、体調不良に陥っていた吉田を見かねて、八田さんはこう言った。「お前は頑張った。減量はいいから飯を食え」。一見突き放したような言葉の裏にある優しさが、吉田の胸に響いた。

 この階級には強力なライバルがいた。圧倒的な腕力で世界最強の呼び声が高かったアリエフ(ソ連)だ。だが、吉田には秘策があった。相手が腕力まかせに引き込もうと腕を伸ばす際、下半身の防御が甘くなる。そこへタックルを仕掛けるのだ。

 決戦は5回戦。吉田は得意のフットワークでアリエフのタックルをかわし続けた。しびれを切らし、つかみにかかった敵にまんまと「秘策」が決まった。

 ドラマは終わらない。吉田は日大の卒業式に向かう電車内で金メダルをなくしてしまう。「八田さんに怒られた。『見つからなければ、上と下の毛を全部剃れ』って」。

 覚悟を決めていたが、何とかメダルは出てきた。1998年ソウル五輪後にもレスリングの小林孝至が一時、金メダルを紛失したが、「元祖」は吉田だ。

 明治乳業(現・明治)に入社すると、営業部門に配属された。当初は教員への転身を夢見ていたが、「一生懸命働いたら、仕事がおもしろくなっちゃった。気づけば定年まで働いていました」

 取締役まで上り詰め、関連会社の社長も務めた。東京五輪へ向けて現役選手へのエールを求めると、「再びあの感動を沸き起こしてほしい。あと、メダルはなくさないようにしてくださいね」。豪快に笑うのだった。

週刊朝日  2013年9月27日号