津波で甚大な被害を受けた岩手県下閉伊郡山田町。ここにはあまり被害のなかった高台の〈山内〉、その一方で明治、昭和と大津波に遭っており、今回も7割の家が全半壊した低地の〈田の浜〉など、被害状況の異なる地区が存在する。その相違から読み取れることは何だろうか。現地を訪れたノンフィクション作家の吉岡忍氏がレポートする。

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 昭和の大津波のあと、三陸の被災地のその後を訪ね歩いた民俗学者、山口弥一郎は被災から10年後の田の浜を見て、こう書いている。

「田の浜はいよいよ(明治)二九年の地均しをした土地へ再び集団移動地を建設し、昭和十八年春訪ねた時は、見事な市街形をなした家並みが背後の山腹にあり、海浜の元屋敷には商店の若干と移入者の仮住居のごとき納屋が並んでいるに過ぎなかった」

 これを読むと、田の浜の高台移転はほぼうまくいったように見えるが、山口がこの地を訪ねた時期に注目していただきたい。1943(昭和18)年は日中戦争から太平洋戦争へと拡大した戦争が泥沼化し、この国が窮地へと陥っていく時期である。2年後に敗戦。戦後の大混乱と価値観の大転換と食糧難がいっぺんにやってくる。

 田の浜でもっとも長寿の元漁師、下村孝夫(90)はグアム島で米軍捕虜になり、47(昭和22)年に故郷にもどってきたときのことをよく覚えていた。

「どこからきたのか、浜の方に人が増えていたねえ。盛岡から家族そろってきて、ひさしをかけただけの掘っ立て小屋に暮らしていた人もいましたよ。終戦後はイカが豊漁だった。イカは、竿が2本あれば、素人でも漁師の半分くらいは獲れるし、漁業は浜に近い方が便利だからね。地べたで干してスルメにして、遠野あたりまで担いでいって、米と交換するんだ。車なんかないから、行きも帰りも歩きですよ。こういうのを見ているから、高台に移った土地の人も、かまど分けだ、分家だ、といって、まただんだん下に住みつくようになったんだ」

※週刊朝日 2012年3月16日号