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「話題の新刊」に関する記事一覧

泡沫候補
泡沫候補 選挙において当選見込みの低い候補者を「泡沫候補」と呼ぶ。本書は世間から「色物」扱いされ、まともに耳を傾けられにくいその存在に密着したユニークな取材記。映画「立候補」を下地に、監督自身が書き下ろしたものだ。  何人かの候補者にスポットを当てているが、とりわけ強烈な印象を与えるのがマック赤坂氏だ。演説では所構わず歌って踊り、政見放送でコマネチ。一見理解不能だが、「破天荒なことをやっているだけで中身は純粋」と語る秘書、一流商社マンを経た今は「爆発している時期」と見る息子など、少数ながら理解者の姿がある。当初は戸惑いが大半を占める取材に、次第に対象者への敬意が入り交じる。著者は最終的には「泡沫候補」という言葉が取材対象者らを傷つける可能性に思い悩んだと回想するが、こうした視点の変化が包み隠さず描かれているのが魅力だ。  知事選の立候補にかかる供託金は300万円、演説には地域(場所)制限がないなど、本書を通じ選挙制度について驚きをもって知る事実も多い。。
「無」の科学
「無」の科学 「無」とか「ゼロ」とかいうとなんだかネガティブなイメージだが、この世のいろいろな「なんにもない」には科学の謎を解き明かすスゴイことが隠されているらしい。ビッグバン以前の“虚無”からナマケモノがまるで動かない理由まで、「無」にまつわる科学の最前線を各分野の第一線の研究者たちがつづる。  プラセボ効果とは、効能ゼロの偽薬でも患者が効くと信じることで症状が緩和したりすること。ところが逆に、すでに効果が認められている薬を患者に何も告げずにこっそり投与すると、驚いたことに全然効かないという。薬の効果とは、実は「効く」と期待することで患者の脳に生じる生化学的反応と薬の作用の双方が絡み合った結果なのでは、と述べている。  数とは何か、数の定義についての項が面白い。なんと0を示す「空集合φ」ただ一つを使って、整数や分数、複素数から量子論の最新の数学的概念まで、簡潔かつ美しく定義してしまうのだ。つまり数学のすべては「無」に基づいているという驚くべき結論を導く。  変哲もない日常の根底にこんな想像を超える異世界があるとは。驚。
異常気象が変えた人類の歴史
異常気象が変えた人類の歴史 歴史を理解する時、英雄の登場や為政者の行動などに背景を求めがちだ。本書はこうした歴史の理解に、自然科学の視点を持ち込むことで読み手の認識を一変させる。先史時代から未来予測まで、数万年単位での気候変動が歴史にどう関わってきたのかを40の話を通じて読み解く。  例えば、六世紀に領土を拡大していた東ローマ帝国の進撃を止めたのは、地球の裏側の巨大火山の噴火だったと指摘する。ナポレオンがワーテルローの戦いで大敗したのは戦略の誤りではなく、エルニーニョ現象によるものだと推論する。大国の趨勢を左右する事象だけでなく、最高品質の弦楽器であるストラディバリウスの音色や京都のアカマツ林の秘密にも迫っており、話題の幅も広い。  異常気象は歴史を変えた全てではないが、分岐点となる出来事に影響を与え、文化や生活そのものを変えてきたことがわかる。同時に、本書は温暖化や寒冷化の恐ろしさを改めて教えてくれる。日本のみならず世界で異常気象が相次ぐ今、多くの示唆に富んだ一冊だ。
ダブリンで日本美術のお世話を
ダブリンで日本美術のお世話を 潮田淑子さんはアイルランドに1960年から住み始めて54年。元ダブリン大教授の夫、哲さんとともに「草分け」的な存在だ。司馬遼太郎さんも『愛蘭土紀行』の取材で、夫妻から貴重なアドバイスをもらっている。  その潮田さんは70年からダブリンのチェスター・ビーティー・ライブラリー(以下CBL)に関わってきた。「日本の中世の絵本や絵巻物を研究したいなら、ダブリンの小さな図書館を訪ねてみたらいい」といわれるCBLで、専門知識のない潮田さんが膨大な日本関係の収蔵品の“山々”に分け入っていく。浮世絵版画や摺物、絵巻物のカタログ作りから始まり、やがて絵入りの写本「奈良絵本」の世界へ。『武蔵坊絵縁起』『源氏物語』などの奈良絵本については、ダブリンや東京、京都で国際会議が開かれるほど貴重なものだった。潮田さんは世界的な研究者に鍛えられ、最初はボランティアとして、のちには学芸員となっていく。CBLの話もおもしろいが、アイルランドでギネスの飲めない日があるなど、至る所にちりばめられたアイルランド事情も本書のスパイスとなっている。
「サル化」する人間社会
「サル化」する人間社会 ゴリラやチンパンジーなどの類人猿やほかのサルたちと人間は同じ霊長類だが、社会のありようはそれぞれ異なっている。ところがいま、人間社会はサルの社会そっくりに変わりつつあるという。人間の社会とは、人間らしさとは何なのか。霊長類研究の第一人者がゴリラの社会を通して、人類の秘密を探る。  荒くれ者、と思われがちなゴリラだが、実は人間よりずっと平和主義者だ。メンバーは平等で勝ち負けの概念がない。目をじっと見ることで争いを避け、相手の気持ちを読むことにも長けている。これに対し、サルの社会は力の優劣で上下が決まるピラミッド型で、互いに気持ちを通じ合わせることはない。  特筆すべきはゴリラが食べ物を分け合い、皆一緒に食べること。社会基盤が家族なのだ。サルは分け合わず一匹で食べる。家族に縛られず、自分の欲求が最優先。現代社会がまさしくサル型であることにギョッとする。  自然界ではどっちが悪いわけでもないが、「ゴリラっていいやつだなあ」と共感する私たちは本質的にゴリラ型だろう。彼らに学ぶことはたぶんたくさんあるのだ。
最高の住まいをつくる「リフォーム」の教科書
最高の住まいをつくる「リフォーム」の教科書 間取り博士の異名を持つ一級建築士が、建築士ならではの視点でリフォームの哲学からノウハウまで教えてくれる。   そもそも住まいの「す」という音は、命を育む“巣”や神社の杉(すぎ)のように、古代から特別な意味を持つ。だから住まいは清らかで健康的でないといけないのだという。健康的で満足のいく空間にするには、いくつかのポイントがある。リフォームの目的や日常生活で必要なことをはっきりさせたり、加齢のための光・風・熱を考えたり。いるモノ、いらないモノを選択するのも大事だ。  リフォームの利点のひとつは、古いものを活かすこと。たとえば子供時代の身長が書かれた柱、古い建具、天井裏と梁や、和室の造作などをあえて残す。そうすればコストを抑えて他にお金をかけられるし、思い出も大切にできる。著者はこうした空間を「古美る」と名付けた。古いものは“自然素材”とマッチして美しくなるというので、参考にしたい。業者に任せきりでなく、事前の勉強がいかに必要か、ということにも気づかされた。

この人と一緒に考える

宇井純セレクション1『原点としての水俣病』
宇井純セレクション1『原点としての水俣病』 1950年代に発生した水俣病。その原因が工場排水に特定されるまでには、病気の被害者たちと行政、企業による長い闘いの歴史があった。本書は、その歴史の中で生涯にわたり被害者側の立場を貫き研究を続けた「闘う科学者」、宇井純思想集の中の一冊だ。  本書では再三にわたり「公害に第三者はあり得ない」という主張が強調される。公害問題において、被害を表面的にしか理解できない企業と、被害を人生の総体として受け止める患者との間には圧倒的な認識差がある。両者の力関係を踏まえず、第三者として「中間」に立つマスコミや行政は結局のところ、加害者と同じ見方にしか立てない──このラディカルな主張こそが、宇井と他の科学者との決定的な違いであった。その視線は自らの足元にも向かう。「中立」を名乗る学問も公害問題解決への障害となったと指弾されるのだ。  原発、ヘイトスピーチ──現在社会で注目を集めるニュースの中にも水俣病同様「第三者」の立場性が問われる社会問題は数多い。著者の問題提起が現代に与える示唆は計り知れない。
きみは赤ちゃん
きみは赤ちゃん 「乳と卵」で芥川賞を受賞した著者が妊娠、出産を経て息子が一歳になるまで、心とからだに起こったあらゆることを綴ったエッセイ。  妊娠、出産、子育ての実況中継とでも言うか、親友に「ちょっと聞いてよ!!」と、目の前でまくしたてられているかのような臨場感にぐっと引き込まれる。 「つわり いつまで」と検索し続けたひどいつわり、「痛みって大事だと思う」「小説家なのにもったいない」などと言われながらも無痛分娩を選択したのに、まさかの帝王切開。出産後も赤ちゃんの世話に右往左往。特に、あべちゃん(夫で作家の阿部和重氏)の何もかもが無神経に思え、孤独感に打ちひしがれる“産後クライシス”のくだりが心に残る。出産で人生が一変した女が抱えるしんどさを分かってくれない男。その絶望感たるや。  妊娠前には知るよしもなかった出来事の連続に著者の心は揺れ動き、思考が駆け巡る。その様子がストレートに響き、感情が揺さぶられる。そして、「きみに会えて、とてもうれしい。生まれてきてくれて、ありがとう。」という温かな言葉が心に染みる。
脳に棲む魔物
脳に棲む魔物 ニューヨーク・ポストで記者として活躍していた著者は、あるときから仕事のミスが増え始め、妄想、幻聴に悩まされるようになった。そして突然泡を吹いて昏倒する。当時の混乱した記憶をたどり、家族や医師にも取材、一カ月に及ぶ壮絶な闘病と、著者を襲った謎の病の正体を追った衝撃的ノンフィクション。  誰かれなく口汚く罵り、狂ったように暴れる姿はまるで悪魔に取り憑かれたよう。だが、あらゆる検査をしても異常がなく、原因がわからない。ある医師が著者に時計の絵を描かせてみると、数字を全部右半分に描いたことから、ついにこの病気が数年前発見されたばかりの特異な脳炎であることをつきとめる。  著者の人格と認知能力が恐るべき速さで壊れていく様子もさることながら、驚くのは回復しても当時の記憶が事実か妄想か自分では判別する術がなく、いま見ていることも本当は妄想ではないかという疑念を拭えなくなったこと。何が現実なのか、自分という人格は本当に存在するのか。すべてが脳という不可解なものによってのみ成立することを、背筋が凍るような思いとともに知る。
NHKと政治支配
NHKと政治支配 本年冒頭、NHK新会長と安倍政権との癒着が国内で波紋を呼んだ。政府から独立しているはずの公共放送が逆方向に向かっている──本書は東京新聞・中日新聞で論説委員などを務めた元新聞記者による、危機感にもとづいたジャーナリズム論だ。  メディアの権力服従を生み出す要因にあげられるのは「客観報道」だ。報道は客観性にもとづくと聞いて違和感を持つ人は少ないだろう。しかし、それは主観を削ぎ落とし「ありのままの事実」を垂れ流すことではない。権力者の意思をそのまま伝えることは、暗黙の追随だ。安易な「客観報道主義」が日本型ジャーナリズムを衰退させたと著者は手厳しく批判する。「客観報道」とは本来事実の意味や予想される影響など、公平性や多面性に支えられる。その原点は取材者自身の疑問や驚き、すなわち「主観」である。つまり「客観報道は主観から始まる」のだ。  あとがきでは世間の安易なマスコミ批判にも警鐘が鳴らされる。真の狙いは本書の読み手自身が主体的にジャーナリズムを再考することにある。
石の虚塔
石の虚塔 「神の手」を持つといわれた男がいた。藤村新一。アマチュアながら、旧石器時代の石を次々と掘り出し、考古学史を塗り替えた。後に自ら石を埋めていたことが明らかになり、日本の考古学の時計の針を逆回転させる。だが、本書を読むと、藤村の暴走はアマチュア学者の虚栄心としては片づけられない。著者の根気強い取材は学閥闘争と旧態依然とした学界の体質に踊らされた藤村の被害者としての側面も浮き彫りにしている。 「世紀の発見」とされた岩宿遺跡の発見。発見者は考古学好きの行商人の相澤忠洋として知られるが、考古学界では論文執筆者の明治大学教授の杉原荘介とされている。手柄を横取りされた相澤の杉原に対する怨念。それを焚きつける、杉原と犬猿の仲である明大の芹沢長介。明大を去った芹沢は東北大学で古巣への復讐に燃える。アマチュア学者を重用し、その系譜に連なるのが藤村だった。  藤村はねつ造発覚後、自ら二本の指を切り落とした。「ケジメ」をつけた藤村に対して考古学の世界は変わったのだろうか。
30歳から幸せな結婚ができる女、できない女
30歳から幸せな結婚ができる女、できない女 成婚率80%。業界一の実績を誇る結婚相談所の代表である著者が、結婚への近道の方法を実例とともに教えてくれる。今は晩婚化時代だが、中高年は婚活してもうまくいかないことが多い。越えないといけないいくつかの「壁」があるからだ。  たとえば、親の介護問題。自分の婚活と親の介護が重なれば、介護を優先しがち。そしてますます狭き門に……。一方の親も、年と共に子供の結婚を諦めることが多いが、そこには「親のエゴ」が潜むことがある、と著者は指摘。 「『もういいんじゃない?』という親のセリフの裏には、娘が離れていくのではないかという不安や、老後の面倒を見てほしいのに、という心が隠されていることが多い」  親との距離が近ければ近いほどそれを受け入れ、“親が寂しがるから結婚できない症候群”にかかりやすいというわけ。 「受験」と同じで、自分の力や状況を知り、克服のための策を練らないと合格(結婚)できないのだ! 婚活中の中高年のほか、親が読んでも「はっ」と気づくリアルな理由が見つかりそうだ。

特集special feature

    京城のダダ、東京のダダ 高漢容と仲間たち
    京城のダダ、東京のダダ 高漢容と仲間たち 1920年代、日本にはあらゆる権力に逆らおうとした若い芸術家たちがいた。ダダイストの辻潤と高橋新吉である。本書には彼らに触発され「高ダダ」と名乗っていた朝鮮人、高漢容をめぐる様々な逸話が記されている。  ダダイズムという新しい芸術運動は、夏の夜空を一瞬にして彩る花火のように多くの若者の興味を引き付けたが、「権威に頼らなければ生きてゆけない人間の本質的な弱さ」ゆえ、現実においては無力であった。今や韓国文学史上唯一のダダイストであった高を記憶している人はほとんどいない。  だが、高漢容という「無名の人物」の痕跡を辿ると、廉想渉、羅稲香などの朝鮮の人気作家から、佐藤春夫、秋山清まで、当時の日本と朝鮮で活動していた豪華な顔ぶれが立ち上がる。著者は丹念な調査や膨大な資料をもとに、今まで脚光を浴びることのなかった日韓のダダイストたちの交流を描いているのだ。  資料の穴を埋める豊かな想像力と既存の研究を転覆させる鋭い分析力によって、著者はダダという「破壊の道」を夢見た若者たちの青春をスリリングに描きあげている。
    紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場
    紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場 東日本大震災の津波に呑みこまれ、日本製紙石巻工場は壊滅状態になった。大方の従業員は工場閉鎖を覚悟した。だが、半年後、出版用紙を供給する抄紙機、通称8号マシンが復活する──。  震災前の石巻工場は、日本製紙の洋紙国内販売量の4分の1を生産していた。中でも、全長111メートルの8号マシンは古いながらも100種類ほどの紙を造り、他の工場で同じものはできない。工場で働く人々は、ヒットして何百万部にふくれあがっても紙を切らさない覚悟で紙を造る。コミック本を手にした子供たちが嬉しくなるように紙をふわっと厚手に、それでいて柔らかな皮膚が切れないように造る。編集者から「弓なりに美しく開く本がほしい」と言われれば意図を考え抜いて形にする。そんなノウハウを蓄積してきた石巻工場の復活は、出版業界に待たれていた。従業員は思う、<きっと、出版社は自分たちの紙を待っている。出版社が8号を放っておくはずがない>。瓦礫の撤去。徹夜の整備。粘り強い作業。紙の文化を命がけで担う人々の矜持がある
    屋久島発、晴耕雨読
    屋久島発、晴耕雨読 鹿児島県南の洋上、樹齢千年を超すスギの原生林を擁する世界遺産の地からの島だより。とくれば、表題にも誘導されて悠々の暮らしを想像するのが普通だろう。しかし本書における著者の日々は、激しく忙しい。  東京の大学を卒業後、6年を経て著者は1975年、「帰りなんいざ」と生地屋久島に踵を返した。ヤギを飼い自給自足の無農薬栽培を志すが奮闘空しく営農を断念。電報配達、新聞記者などを経て今は民宿を経営するひとの来し方を伝えるエッセイ集だ。  風呂焚きの炎に見入り、水平線を飽かず眺める。確かに長閑だが、ぼんやり過ごす無為の時間こそが著者を多忙にしたらしい。自然への畏敬の念がわく。鳥虫獣ら命の尊厳に思索は及ぶ。すると大切な何かを捨て、経済効率、利便性優先に傾き出した島の現状が見えてくる。  抗わずにはいられない。合成洗剤使用反対、乱暴な開発阻止運動ほかスポーツ少年団の運営や伝統行事継承のための奔走……。郷土(クニ)を愛する気持ちで連帯し芋焼酎を燃料に盛り上がる著者以下、屋久島のアイコクシャ群像の記でもある。
    いるか句会へようこそ!恋の句を捧げる杏の物語
    いるか句会へようこそ!恋の句を捧げる杏の物語 「俳句なんてあんなおじいちゃんばっかりじゃん」。母親に連れられ、初めて句会に参加する大学生の主人公・杏は、そうぼやく。ところが句会に一歩足を踏み入れると、イケメンがいたのである。杏と同い年の女の子もいる。そう、句会は老若男女が集い、語り合う場でもあるのだ。  本書は1974年生まれの俳人による俳句入門書であり、ラブストーリーである。俳句初心者の杏の目を通して、句会の仕組みや俳句のいろはが語られる。同時に、杏の恋も進行。社会人一年目のイケメン・昴さんとの恋の行方が爽やかに描かれる。  俳句はひとりでも楽しめるが、句会に参加することで、ひとりでは見えてこなかったことが見えてくる。素通りしていた句が、他の人の選評によって新たな輝きを持ち始めることもある。本書の舞台である「いるか句会」は実在する句会だ。堀本氏が主宰し、毎月一回、東京・荻窪で開かれている。読み終えたら、実際に参加してみるのもいいかもしれない。俳句の世界へ、ぽんと背中を押してくれる一冊である
    台湾環島 南風のスケッチ
    台湾環島 南風のスケッチ 台湾に移住し、台南の塾で日本語を教える著者が、沖縄の楽器である三線を背にバイクを走らせ、各地を旅した記録。人々と交流し、4年の間に見聞きしたものを、本島南端からぐるりと一周するように紹介する。  バイクで3日あれば一周できる台湾だが、さまざまな貌をもつ。台東には、ウミガメが産卵に訪れる、生態系が豊かな海岸があり、古くから住む原住民族は、「海は私たちの冷蔵庫だ」という。だが、すぐ傍には巨大リゾートホテルが建ち、反対運動が起こっている。他方で、道端の寄付に快く応じる若者の姿もあり、「強さよりも弱さと優しさが、美しさよりも素朴さが、ここでは大切にされているように思う」と著者。原住民族タオの住む離島にも行く。ここには海という異界への入り口である浜辺に、聖なる感覚を抱いてきた人々が住み、30年ほど前に建てられた放射性廃棄物処理場の廃棄物を「悪霊」と呼ぶ。  不登校、大検を経て大学院を修了した著者の柔らかな視線と軽やかなフットワークがある。様々な動物が鼻を突き合わせるらしい道教の廟など写真も楽しい。
    ほんの数行
    ほんの数行 1000冊を超える本の装丁を手がけてきたデザイナーによるブックガイド。自らが関わった本の中から100冊を厳選し、心を惹かれた「ほんの数行」を紹介している。  まずは「この本の装丁も和田誠だったのか」という発見と驚きがあった。例えば、『パパラギ』。初めて文明に触れたサモアの酋長の文明批判が書かれたこの本は、エキゾチックな装丁が魅力的で書店でも特に目立っていた。著者は表紙に描かれたものは「サモアふう模様」だと説明し、「彼の言葉は少しも古くなっていない上に、ますますぼくたちにとって耳が痛い言葉」だとこの本の魅力を伝える。  著者自身が出版を提案し、編集にまで携わった『赤塚不二夫1000ページ』、谷川俊太郎の感覚に「触発され」て「絵がひとりでに変化する」ことを経験した『ナンセンス・カタログ』。各作品を紹介する著者の言葉は、本の制作に関われたことへの喜びの気持ちに満ち溢れている。  本の紹介にとどまらず、書き手とのエピソードなど舞台裏話までが盛り込まれており、とても楽しめる内容となっている。

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