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「話題の新刊」に関する記事一覧

「踊り場」日本論
「踊り場」日本論 売れっ子コラムニストの小田嶋隆と、デモクラシーについての著作を数多く出してきた政治学者・岡田憲治が対談した。昭和30年代生まれの二人が語らったテーマは、現代日本論だ。彼らが生きてきた戦後日本社会のありようを見つめ、日本の未来を探る。  章立ては「選挙」「『取り戻したい日本』とは」「これからの社会のありかた」「東京」と具体的だ。だが、対話はいろんな方面に寄り道する。自民党や民主党の政治家を俎上にのせ、家族や教育に話が及んだかと思えば、オリンピックの意義を語り合う。  二人とも現実をよく見た上で発言するスタンスこそ同じだが、小田嶋はより直観的に考えを言い、岡田は学問に裏付けられた知識によって、小田嶋の考えをひもとく。対話が深まるにつれ、戦後日本を覆ってきた空気や、それを支えてきた「自民党的なもの」の姿がさまざまな角度から照射される。本書を読み終えたとき、「日本」の輪郭が少し見える気がする。  二人の知見は書き言葉でしか知らなかったが、話し言葉によってもさらなる知見を得られる一冊だ。
認知の母にキッスされ
認知の母にキッスされ 笑いとペーソスの介護ノンフィクションだ。  認知症が進みゆく母親は、役者のように日々別人に化け、周囲をふりまわす。そして、がまんができない。病院に毎日のように見舞いに訪れる〈私〉とは、ちょっとしたことで諍(いさか)い、「正一なんか帰れ! 帰れ! 健二はどうしているんだ」と弟を乞(こ)う。  ある日のこと。同室の隣のベッドに医者や看護師たちが駆けつけ、臨終を告げる声。泣き崩れる声とともに、人の出入りであわただしくなったそのとき、「正一、うんちがしたいんだよ」と母。こういうときだから「辛抱して」と拝む気持ちの著者に、「正一はどうして忍者みたいな顔をしているの。正一と私は親子でしょ。こんなときに忍者にならなくてもいいでしょ。うんち、うんち」と喚(わめ)きだし……。  うろたえる〈私〉が自分ならばと想像し、冷や汗を感じるとともに、ままならぬドタバタこそが介護の現実なのだと得心させられる。  母だけでない。昔の同級生から認知症になったと打ち明けられる話など、明日の見えない展開はエンターテインメントとしてもエッジがたっている。
全国のR不動産面白くローカルに住むためのガイド
全国のR不動産面白くローカルに住むためのガイド どこに住み、どう働くか──。そんなことを改めて考えてみたくなる一冊だ。東京R不動産が始まったのは2003年。「改装OK」「レトロな味わい」など、少しクセがあるけれど、人によってはたまらなく魅力的かもしれない物件を集めた不動産サイトで、今や全国9都市で展開されるまでになった。  本書には、鎌倉、金沢、大阪、神戸、福岡、鹿児島、山形という各地の特徴や魅力、物件案内、移住者の実例などが凝縮されている。  築100年超の町家を金沢R不動産で見つけた女性は、「家と人は縁だ」と会社を辞めて移住。2年かけて改装し、雑貨とカフェの店を営む。  また、家族3人で神戸の外国人向けマンションに転居し、東京と神戸の二拠点で仕事をする男性は、「移動することが一番の気分転換になるのでむしろありがたい」と語る。  しかし、地方暮らしには予想通りにいかないこともある。本書に出てくる移住者も、決して“成功者”ではなく、試行錯誤の過程にある。ローカルに住み、働くことが何なのかはなかなか分からない。でも、分からないところに面白さが宿っているのだ。
青木理の抵抗の視線
青木理の抵抗の視線 本書はフリーランスのジャーナリストである著者が近年の時事問題に関する執筆記事や、自身が登壇したインタビューをまとめた時評集だ。  全体は三部構成。第一部、第二部では官邸前デモ、集団的自衛権をめぐる解釈改憲、特定秘密保護法など、この5年の間に国内で起こった出来事と、それを取り巻く政治やメディアに対する率直な批判──著者言うところの「抵抗の視線」が綴られる。ひときわ問題視されるのが、ネット上の差別的な書き込みや書店に並ぶ嫌韓・嫌中本など、近年国内に浸透する人種差別的な風潮だ。ひとたびそうした不寛容さが広がればもはや、ジャーナリズムにもアカデミズムにも打つ手はない。「相当な危機感を持っている」という著者の言葉が突き刺さる。  第三部では、ジャーナリストの仕事は日々の出来事の記録を通し「歴史のデッサンを描くこと」という考え方を紹介しながら、自身の仕事への揺るぎない矜持を語る。若きジャーナリスト志望者に特に薦めたい一冊だ。
死に支度
死に支度 「どのように死を迎えるか」ということは、「どのように残された生を全うするか」ということでもある。92歳という著者の年齢を考えると、このような問いを意識するのは自然なことだろう。本書は、古参のスタッフたちから一斉に辞意を伝えられた寂聴さんが「人生最後の革命」を決意し、文芸誌の連載「死に支度」を開始するところから始まる。  しかし、本書は「死」という言葉がはらむシリアスさとはほとんど無縁で、むしろ寂聴さんの天衣無縫さが際立った私小説、または追想録となっている。「~なう」「○○キャラ」といった若者ことばを使いこなし、自身の老いに関しても、「死の上に張った薄い氷に乗っているような感じ」といった絶妙な比喩で言い表す。26歳のモナを中心としたお手伝いさんたちとのやり取りからも、寂聴さんの人間的な魅力が伝わってくる。  文章の瑞々しさに驚きつつ、両親や姉、文学の師を看取ってきた、その深い死生観にたびたびハッとさせられる。「幽霊は死なない」という言葉通り、寂聴さんにはこれからもさらに多くの言葉を紡いでほしい。
路地裏の資本主義
路地裏の資本主義 資本主義は世の中で最も強力に機能している社会システムだが、一面では、不完全で、残酷で、いい加減なものでもある。会社や喫茶店を経営する事業家、作家である著者が、本書では資本主義の問題点を浮き彫りにする。  1980年代までは、町のあちこちに喫茶店があった。人々は本を読んだり、友人と議論を戦わせたりしながら、自由気ままな時間を過ごす。そこには今の世の中が失いつつある解放感が漂っていた。だがバブル期を境に、そうした喫茶店は画一化されたチェーン店に変えられてしまう。経済成長だけが唱えられるこの世で、「非効率のモデル」のような昔の喫茶店は生き延びにくくなってしまった。  資本主義の世界で、消費者は個性を剥奪され、ただお金を運ぶ存在に転落してしまった。教育は画一化された人材を生み出そうとし、2020年東京オリンピックを巡って皆と異なる意見を言うと、直ちに「非国民」と野次が飛んでくる。そんな窮屈な世界から多様性を取り戻すため、著者は「資本主義が及ばない場所」=「路地裏」を提示する。より良い社会とは何かを考えさせる良書だ。

この人と一緒に考える

張り込み日記
張り込み日記 写っているのは捜査中の刑事だ。神田の古書店に眠っていたモノクロ・プリントの束を、ミステリー作家の乙一氏がドキュメンタリータッチに並べ直した。東京の下町、旅館、駅の待合。昭和33年に茨城県で遺体が見つかった「バラバラ殺人事件」の捜査に随伴した写真家がいた。当局が許したことが驚きだ。  写真の一枚一枚に説明はなく、当時の新聞を読み込む中から、乙一氏は「その場所」の意味を探り出している。写真に物語らせ、点景はつながりをもつ。写真説明が「ない」がゆえ、あとがきの種明かしはスリリングだ。  ハンチングにコート。履きこまれた革靴。襟のバッジ。「ぞうすい一杯十円」の貼り紙がひらひらする夜更けの飯屋で、顔をほころばせる刑事。物のなかったニッポンへと読者は嵌まり込む。まさに松本清張の世界だ。黒電話を大机の真ん中に置いた捜査会議。映画やドラマで既視感はあるものの、迫力が異なる。眼光が、表情が。緊迫感漂う写真の合間に、子供を相手に竹玩具で遊んでやっている路面の光景が挟まっているのがまたいい。
黒幕
黒幕 真実に肉薄する情報は誰もが欲しがるが、安くない。限られた一部の人間だけが手にすることが出来る。  総会屋や経済ヤクザがバブルの臭いを嗅ぎ付けてきた1980年代半ば。捜査当局や大手マスコミはグレーゾーンの生息者の登場に戸惑った。この時、裏社会の水先案内人となったのが情報誌「現代産業情報」の発行人であった石原俊介だ。中学卒業後、職を転々として暴力団とのパイプもあった石原は表と裏の情報交差点に立つことで、当代一の情報屋の階段を駆け上がる。リクルート事件、イトマン事件、総会屋利益供与事件などバブル関連の経済事件の報道の端緒は大半が「現代産業情報」だった。  事件の筋を読む眼力と裏社会の人脈が石原の生命線だった。企業が反社会的勢力との関係遮断を打ち出すことで、影響力は低下し、インターネットの登場がダメ押しになる。とはいえ、情報が金にならない時代になったわけではない。玉石混淆の情報時代だからこそ、権力者の喉元を突くような情報の意味を本書は投げかけてくる。
粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う
粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う 粘菌は単細胞生物だが、たくさん集まってまるで一つの生きもののように動く謎の多い生物である。著者は粘菌の研究で「人々を笑わせ、次に考えさせる研究」に与えられる国際賞、イグ・ノーベル賞を二度も受賞。その愉快な授賞式の顛末と、迷路もやすやすと解くという粘菌の驚くべき知性について語る。  粘菌がいっぱいに広がった迷路の入り口と出口にえさを置くと、粘菌はまず行き止まりの通路から体を引き上げる。次に複数のルートの中で体内の流動時間が長い通路から体を回収して最短経路だけを残す。彼らには原始的な時間認知や記憶の能力まであるらしい。  関東地図の主要都市の位置にえさを置いた実験では、彼らがえさ場を結んだ線は全長距離や断線時の代替ルートなど諸条件を勘案した最適の複雑系ネットワークになる。これがなんとJR交通網とそっくり。脳も神経もない単細胞生物が、人間がさんざん頭を絞って作ったものと同じものを軽々と作っている。  人間とはまるでちがう形の“賢さ”が刺激的。人はもっと粘菌のやり方を学ぶべし、とユーモラスに提案している。
白神山地マタギ伝 鈴木忠勝の生涯
白神山地マタギ伝 鈴木忠勝の生涯 白神(しらかみ)山地最後の伝承マタギ、鈴木忠勝の生涯を、彼と10年余りにわたる付き合いのノンフィクション作家が綴る。明治生まれの鈴木は名実ともに村の最後の伝承マタギで、マタギ集団のリーダー「シカリ」でもあった。  40年ほど前、まだ地元には白神山地という名称がなかったころ、高山的景観に乏しい、俗に言う「ヤブ山」の豊かな恩恵にあずかり暮らす人々がいた。「世界自然遺産」登録による観光化でにわかに出現した「マタギ」と違い、集落では、一子相伝の死送りの儀式を司る猟人(さつびと)のみがマタギとして認められる。クマ狩りの際の「四つグマのたたり」を始め、鈴木の語る山の伝承の数々に、里の生活とは異なる山詞(やまことば)を使い、呪法を用い、狩猟の際の女人禁制の戒律を厳しく守る生活の気配がのぞく。驚くのは自給自足をする鈴木の歩行距離だ。直線距離で60キロはある、山あり川ありの道を一日で踏破する。 「世界自然遺産」白神山地では法律で狩猟が禁じられた。集落も解体消滅し、マタギの実情を知る村人もほとんどいなくなった。呪術的な信仰世界の貴重な記録だ。
面白可笑しくこの世を渡れ
面白可笑しくこの世を渡れ 日本人におけるキリスト教と信仰の問題を描き続けた芥川賞作家遠藤周作によるエッセイ集。狐狸庵(こりあん)と自称し、ユーモアに富んだ文章を数多く残した時代に書かれたものが主に集められている。 「小児的な悪戯と馬鹿馬鹿しいことへの異常な好奇心」だけは年を重ねても直らないと語る著者の性格が垣間見える内容となっている。蝋でできたチョコレートで相手を騙してはその反応を笑ったり、持ってもいないビートルズのパンツがひどく臭かったと嘘をついて、ファンの少女たちをからかったりする。宗教など重いテーマを扱う作家だが、生き様はとても愉快で面白い。  それ以外にも、時には飲み屋で出会った男に愛読者だの実物の方がええ男だのと乗せられて、勘定を払わされる羽目になったと怒り、時にはひょんなことで近所付き合いが始まった女性の若き死を悲しむ。人と話す時には喜怒哀楽がそのまま顔に出てしまう素直な性格だと述べているが、その豊かな表情は文章にもそのまま表れている。著者の魅力を存分に味わえる一冊だ。
たったひとつの「真実」なんてない
たったひとつの「真実」なんてない オウム真理教のドキュメンタリーなどで知られる映画監督が、メディアとの付き合い方を平易な文体で解説した新書だ。一般的に「客観的」で「公正中立」と考えられるメディアだが「絶対的に客観的で正確な記述は不可能」と著者は直球で読者に投げかける。ニュース一つ取っても、メディアはすべての出来事を伝え切れない。必ず情報の四捨五入が行われ、視聴率や部数を意識した「わかりやすい」ストーリーへと変換されるのだ。オウムや袴田事件など具体的な出来事に言及しながら、当時「中立」とされていた報道が実際にはいかなる過ちを犯していたかを検証してゆく。 「マスゴミ」という言葉があるように最近では「メディアは嘘ばかりつく」という見方も世の一部に流通している。しかし、本書はそうした見方に同調するのでもない。力点は視聴率や部数を支える視聴者・読者自身が、情報を自覚的に受け取っていくことの重要性に置かれている。メディアに批判的距離を保ちつつ、かといって断罪するだけでもない。そのあわいで報道と関わる新たな「希望」を教えられる一冊。

特集special feature

    マンブル、ぼくの肩が好きなフクロウ
    マンブル、ぼくの肩が好きなフクロウ イギリス人の作家が、ロンドンの高層マンションと田舎の一軒家でモリフクロウを飼った15年間の記憶をたどる。フクロウの生態や体の造りや行動周期などの解説も加えた猛禽との生活記だ。  猛鳥でも若いうちに飼うと人なれすると知り、34歳だった著者は認可を受けたブリーダーのもとで孵った生後1カ月のメスの雛を自宅に持ち帰る。一日に体重の二割の量を食べるとされる肉食のフクロウに、冷凍庫に大量に詰め込んだヒヨコを毎日二羽ずつ与えた。遠慮なく排泄におよぶ習性に備えて床に新聞紙を敷きつめビニールシートを張った。やがて彼女は著者の肩に好んで止まるように。だが、「気まぐれだがおおむね愛らしいペット」ではなくなり、著者以外の人間を縄張りへの侵入者とみなして攻撃するようになる。  週末の朝は、キッチンで2時間ほど著者と互いに羽づくろいをして過ごした。抱卵行為や肥満を目のあたりにし、鳥を飼育下におく罪悪感を覚える一幕もある。フクロウの見かけ以上に長い首がするする縮む様の観察などは興味深い。
    無人島、不食130日
    無人島、不食130日 「飽食の時代」と叫ばれたのも今は昔。最近は「節食」が健康には欠かせないと耳にするようになったが、本書が提唱するのはその先を行く「不食」だ。  これまでも「人は食べなくても生きられる」を訴えてきた著者が、沖縄県の内離島で130日間に及ぶ無人島生活を決行。裸で日々を過ごし、木に登り、漂流物を漁る。時には、貝や魚を獲り、生で食す。賞味期限の幻想から解き放たれているため、「腐食」も気にかけない。「不食と言いながら食べているではないか」と指摘はあるだろうが、一日当たりの平均摂取量は小魚半分程度に過ぎない。むしろ著者の無人島生活の狙いは完全なる「不食」の徹底ではなく、「食べなくてはならない」と急かされ続ける現代社会への懐疑にある。その意識は食にとどまらず、働き方やお金の意義、幸福論にまで及ぶ。 「現代の幸福論」は古代から幾度となく議論されてきており、目新しさはない。だが、著者の場合、無人島での不食という強烈な実践体験があるからか、極論ではあるものの不思議と惹きつけられる。
    エヴリシング・フロウズ
    エヴリシング・フロウズ 主人公である中学三年生のヒロシの周りは、ちょっと複雑だ。  ヒロシには父親がいない。小さい頃に両親が離婚し、女手ひとつで育てられた。その母親が再婚したいと言い出す。友人のヤザワは、理不尽な理由で悪意のある噂を広められ、嫌がらせの標的となる。クラスメートの女子生徒は、なにやら家庭の事情を抱えている……。  周囲の危機に、ヒロシは半ば強制的に巻き込まれるが、正面きって助けられるほどの力はない。それでも精一杯の勇気で、おずおずと手を差し伸べ続ける。 「誰だってまともに生きていきたいと思う。けれど自分たちには、独力でそうするためのツールが、まだ与えられていない」。まだ大人じゃないせいで、自分ではどうすることもできないことがある。その無力さと憤りを抱えながら、この小説に登場する少年少女たちは、しっかりと自分の足で立ち、未来を見つめる。  作者は本作執筆の途中、10年半勤めた会社を退職した。強い覚悟と想いが、大阪弁を交えた軽やかな文体からにじむ。渾身の一冊である。
    真剣に話しましょう
    真剣に話しましょう 本書はナショナリズム論などで知られる論客・小熊英二が、主に2010年以降、社会学や現代思想などの領域で活躍する研究者らと行った九つの対談を収めたものだ。  いずれのやりとりにも通底するのは対談に臨む小熊の「妥協のなさ」だ。入念な準備のもと若手から大御所まで、対談相手の著作や発言の疑問に容赦なく切り込んでいく。白眉が上野千鶴子との対談だ。デビュー作以降の著作を細かい記述から掘り起こし、思想の核のみならず日本近代思想史における位置づけを本人を目の前に炙りだしてゆく。その手腕は上野をして「何が白日にさらされ、何が問題として残っているかがまざまざと分か」ったと唸らせるほどだ。  小熊はあとがきでかつて編集者だった経験を踏まえ、対談においては話し手の権威や、立場が近い者同士のうなずきあいを基盤にするのではなく「意見の違う部分を交換して、一人だけでは至れない地点に発展させるプロセス」を重視したと記す。語られた内容のみならず「対談とは何か」という地点まで一考を迫る一冊だ。
    失われた感覚を求めて
    失われた感覚を求めて 大手出版社での“売れる本作り”に嫌気がさし独立、東京・自由が丘で出版社を立ち上げた著者は、東日本大震災を機に京都郊外にある城陽市を拠点にしようと思い立つ。地方から発信を続ける異色の出版社の愚直な挑戦と、本作りへの熱い想いを語るエッセー。  ただの民家をオフィスにし、その一室でお客さんが駄菓子をほおばりながら好きなだけ本を読むという本屋も開業。編集者は著者一人、学生や全国放浪中の旅人など曲者ぞろいの素人スタッフがアイデアを出す。数字やマーケティングばかりで頭でっかちの従来のやり方ではなく、読者が面白いと思うものを肌で感じようと「身体的感覚」を研ぎ澄ます。  当初、出した本が半年でたった2冊。経理から給料が出ないと言われて初めて、経営に最低限必要な刊行数に気づき、ウェブマガジンを始めたはいいが、配布用の紙版を印刷する段になって印刷会社も金も手配がつかず右往左往。おいおい、大丈夫か。だが一方で、熱意先行のこういう人が作るものにはわくわくする。何が出てくるかわからない、それが本を待つ側にはとても楽しい。
    失職女子。
    失職女子。 生活保護の申請が通ったのは、「私なんかでも、生きていていいんだ……」と心に染み渡る贈り物だったと著者は書く。  正社員経験もある30代後半の女性が、両親との葛藤、体調不良、会社の倒産、約100社に連続不採用、大家によるアパート退去通告を経て、生活保護受給に至る自身の体験を綴る。ちょっとしたタイミングで、するりと就労から滑り落ち、戻れない。それが社会の動きと連動していることも示される。  電話が止まり、連絡が取れないからと、行政の担当者が駆けつけてきて、初めて自身の行き詰まりに気付く。担当者との間に信頼が生まれ、安心を得るまでの心の震え、気付き、勇気、周囲の対応が、軽妙に語られる。親きょうだいからDVや虐待を受けていれば、扶養照会(親族への支援の可否の問い合わせ)はしない等、知られていない情報も。女性にとっての生活保護制度を丁寧に説明した本は稀だ。  当事者には自殺、風俗、借金とは違う生き延び方があることを伝え、支援者には、外からうかがい知れない当事者の心の揺れを教える。

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