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「話題の新刊」に関する記事一覧

エンドレス・ワルツ
エンドレス・ワルツ 円熟期への道を進む著者の行く手を病魔が阻んだ。昨夏、癌のためホスピスで64年の生を終えた稲葉の、本書はその早世というべき死を惜しんでの復刊。女流文学賞受賞作(1992年)である。  舞台は各国各地で同時進行した反戦運動、学園闘争収束後の70年代。親を含むあらゆる強権に抵抗した若者は造反有理の旗を巻いた。そこには白々とした平時の世間があった。  からだの芯に残る叛逆の熾火がもたらす違和感に苦しみ、ココデハナイドコカを求めて得られぬ焦燥を酒と睡眠薬で散らすアルトサックスの鬼才阿部薫と鈴木いづみは同じ種族だった。作家・女優として自立していたにもかかわらず合わせ鏡さながらのこの男との出あいと結婚は一直線に二人を破滅に誘う。  薫の中毒死。せめぎ合う薫への愛と憎しみ。だがいづみはついにその不在を受け入れることができなかった。薫の魂が呼ぶ。眠る娘の傍らでの自死……。凄絶な異形の愛の伝説に輪郭を与え血肉化し得た稲葉の力を改めて思い知る。巻末の解説(小池真理子)が秀逸。まさに文学的弔辞である。
戦場
戦場 両腕を切断された若い母親の写真をはじめ、本書所収の70枚前後の写真と、文章にはひりひりさせられる。アフリカの紛争地を撮った写真集で土門拳賞を受賞した亀山亮がカメラを向けるのは、相手と関係が築けてからという。僻地医療に従事する医師を撮影したユージン・スミスにならってのことだ。  著者は24歳のとき、利き目の左目を失明した。イスラエルの占領に抵抗するパレスチナで、撮影中にゴム弾に当たった。それでもカメラを手に病院を抜け出していく。なぜ、そこまでして──。だれもが思う疑問に「現地で生身のやりとりをして生死の手触りを感じたかった」と書く。ただ、日本を出国する日が近づくにつれ「憂鬱な気分」が募り、準備したフィルムを「全部使い切れば」、日本に帰れると思うようにしていると記す。  向かうのはアフリカの難民キャンプや精神病院など。家族を殺されて呆然とする女性の話に耳を傾け、銃を持つ兵士たちに凄まれれば身をすくめる。安全な国にいて「見ざる」「聞かざる」のまま、「何も知らない」でいいのかと問うてくるルポだ。
新装版 亡命ロシア料理
新装版 亡命ロシア料理 毎月読み切れない量の新刊が書店に並び、数年前の本が絶版になっていることも少なくない。そんな中、1996年に出た本がインターネットで話題になり、新装版として再刊された。それが、この『亡命ロシア料理』だ。  タイトルでわかるとおり、この本は当たり前にロシア料理を紹介した本ではない。著者は二人とも70年代にアメリカに移住し、亡命ロシア人向けの新聞や雑誌の編集に携わっていた。国を追われたわけではないようだが、故郷への愛憎は残る。そのアンビバレンツな感情をロシア風のジョークに包みながら、故郷の料理を大まかなレシピとともに紹介している。  たとえば、「壺こそ伝統の守り手」という章では、「すべてのロシア料理は壺から生まれた」と高らかに宣言する。壺を使って調理すると、肉や魚がどれだけ柔らかく、香ばしくなるかを熱心に語ったあと、アメリカでは、アフリカやカリブ諸島の住民のための店でしか壺が手に入らないと記す。異国で故郷の料理をつくる苦労と楽しみを読むと、少し異文化が近づいた気がする。料理を通した文明批評としても読める本である。
麹町二婆二娘孫一人
麹町二婆二娘孫一人 あと3年でデビュー40年を迎える作家中沢けいによる、少し不思議な家族の物語だ。  東京・麹町の古い屋敷に暮らすシングルマザー美智子さん、お嬢さん気質の母富子さん、ロリータファッションに身を包む娘真由ちゃん、母に長年使われてきた使用人きくさんとその娘の紀美ちゃんの5人の物語。偶然ながら亥年生まれの女性ばかりが揃っている。  一番年上のきくさんと一番年下の真由ちゃんの間には72年という年月がある。この二人が見てきた東京には、その年月の分だけ違いがある。きくさんが見た空襲で焼け落ちた麹町を、そして真由ちゃんが歩き回る裏原宿を、二人は互いに想像することもできないだろう。だが、きくさんが「若い人が着ているぶわっとしたやつ」と言ってダウンジャケットを欲しがり、真由ちゃんがロリータ服を作るため靖国神社の骨董市に出向く場面からは、異なる時代が重なっていく様子がうかがえる。  日々新しく変わっていく東京だが、都心の雑多さや江戸のはずれの長閑さを同時に持つ麹町を舞台に、昔と今が共存する東京の姿を浮き彫りにする心の温まる小説だ。
新種の冒険 びっくり生きもの100種の図鑑
新種の冒険 びっくり生きもの100種の図鑑 今どき、新種なんかそうそう見つかるもんかと思っていたらさにあらず。毎年なんと1万8000種が報告されている。地球上にはいまだ名前のついていない生物は1千万種もいるという。過去10年で発見された20万種の中から、2人の科学者がヘンテコな容姿のもの、ありえないサイズのものなど、10項目100種を選んで紹介するおもしろ生物図鑑である。  でっかい耳をぱたぱたさせて泳ぐ、その名もダンボオクトパス。どう見ても泥の塊、しかも大きさが12センチもある単細胞生物。キミたち、本当に生き物か、とツッコミたくなる。  変な名前の項が面白い。探すのが難しい獲物をなんなく見つけ出すアリは「グーグル」、真空でも死なないタフなクマムシは、あの強い女、マドンナの名がつく。ダジャレで命名する人、学会の憎いケンカ相手の名前の後に「肛門」とくっつけて学名にしちゃう人。学者たちの悪ノリぶりも涙が出るほどオカシイ。  驚いたり笑ったりするうち、彼らのとんでもない風貌、暮らしぶりは、何としてでも生き抜こうとしてきた進化の結果なのだと気づく。生命のすごいパワーに感嘆。
モラルの起源
モラルの起源 集団にぶら下がり、楽して、もらうものだけはちゃっかり手にする人々。周囲を見渡せば、こうした「フリーライダー」は組織に必ず存在するものの、多くの人は彼らに嫌悪感を抱く。時には排除し、協力的な集団を築こうとする。  不思議である。利益の最大化の視点では、なるべくただ乗りして利己主義を貫くことが合理的だ。個体保存の本能でもある。ただ、現代はともかく、人類史を俯瞰すれば、食料が安定的に供給されなかった時代があまりにも長い。ただ乗りする者だけでは種の存続は厳しくなるため、フリーライダーは徹底的に阻害された。すでに旧石器時代に肉を集団で分け合った時には道徳感情が遺伝子に埋め込まれていた可能性が高いという。  著者の慧眼は、人類の良心が長い期間を経て、緩やかに変化しており、いまだに途上であるとの仮説を掲げているところだ。若干冗長な記述もあるものの、膨大なフィールドワークの先行研究などを参照に打ち出す主張は新鮮だ。終章の利己性と利他性で揺れる国際社会の行方も興味深い。

この人と一緒に考える

18歳の著作権入門
18歳の著作権入門 本書は著作権分野の第一人者である弁護士が記した入門書だ。「基礎知識編」「応用編」の二部に分かれ、テーマ別に計20回分の解説が収録されている。  著作物とは「創作的な表現」を指し、そこには著作権が発生する。例えば小説や音楽は「著作物」。そのくらいは理解していても、ではタイトルは? アイデアは?と細かく考えていくにつれ、だんだんわからなくなってくる。そのように、身の回りにあるものは「著作権のグレー領域」で溢れていると本書は教えてくれる。だとするなら、著作権は一部のクリエーターだけが知っておくべき話ではない。大学のリポートに人の文章を内容を改変して引用することはOKか、あるいは屋外での美術作品の写真をツイッターにアップすることは合法か……などなど、若い読者自身が直面しそうな事例が豊富に紹介されている。このような問いかけを通じ、著作権との付き合い方を身近な角度から見直すことができる。  関連著作を持つ著者だが、初めて手に取るなら基礎的な内容がコンパクトに網羅されている本書がおすすめだ。
賢者の愛
賢者の愛 「優雅な生活が最高の復讐である」は、米国の作家トムキンズの有名なノンフィクションの題名である。最初の部分を「優雅な性活」とすれば、本作に似つかわしい題名ともなるだろう。2歳下の幼なじみ百合に、初恋の人・諒一を奪われたベテラン編集者・真由子が、二人の息子「直巳」の名付け親となり、20年以上にわたって彼女なりの復讐を続けていく様子を描く。  本作は谷崎潤一郎の『痴人の愛』への山田詠美流のオマージュであり、「直巳」とは、同書に登場する魔性の女「ナオミ」の転生した姿と言える。しかしながら、同書の譲治がナオミの調教に失敗したのに対し、真由子は時間をかけて“愛”の神髄を直巳に教え込み、自分の思い通りの男に育て上げていく。そこに人気作家となった諒一や百合たちが絡み、一筋縄ではいかない絢爛豪華な愛の世界が繰り広げられる。  童話のような柔らかい文体の中に、「本物の純粋さは馬鹿の持ち物」といった、鋭い言葉たちが光を放つ。大人のための洗練されたおとぎ話と言えよう。
宇宙 果てのない探索の歴史
宇宙 果てのない探索の歴史 私たちはこの宇宙が約138億年前に始まり、どのように進化し、地球誕生に至ったか、また宇宙の中で地球がどこに位置するかをある程度は知っている。数千年の歴史しかない人類が、これらの知識をどう獲得したのか。本書では100の大発見を柱に、宇宙探索の歴史を豊富な逸話とともになぞっていく。  天文学史上で最大のパラダイムシフトをもたらしたのはコペルニクスだろう。紀元前から1600年代まで長く信じられてきたアリストテレスの「地球中心の宇宙モデル(天動説)」を覆し、地動説を計算で裏付けた。その後、望遠鏡が発明され、ガリレオ・ガリレイが宇宙に向ける。観測事実とニュートン、アインシュタインらによる理論の両輪により、宇宙の科学的理解が飛躍的に進む。そして今や「第二の地球」を太陽系外に探す時代だ。  本書が面白いのは、今事実と思っていることが今後、覆されるかもしれないと予感させる点だ。私たちが見ているのは宇宙のたった4%に過ぎないとされる。巻末には未解決の問題が列挙され、本格的探索はこれからだと実感させてくれる。
宗教・いのち・国家 島薗進対談集
宗教・いのち・国家 島薗進対談集 宗教の意義や死について発言を続ける宗教研究者による対談集。「宗教と日本社会」をテーマに、ノンフィクション作家の柳田邦男氏、イスラム研究者の内藤正典氏、政治学者の中島岳志氏や原武史氏はじめ、医師や神父、哲学教授の計7人と語り合った。 「宗教という鏡を通して日本人の心の置き所を問う」が全編を貫く問題意識だ。終末期医療や脱原発、ボランティア、靖国神社と国家神道、皇室と宮中祭祀などの現代的な課題を前に、神道や仏教から、キリスト教やイスラム教まで語る著者の博識ぶりが議論を深める。著者たちの中に特定の宗教の信仰者は、神父以外ほとんどいない。しかし、著者たちは、人知を超越した大きな存在に帰依する精神の重要性を説く。  現代において、宗教に触れる意味は大きい。人間が生死や困難と向き合うときに信仰は助けになること、自国の歴史や異文化をわかるために宗教への理解は必須であることを、本書は教えてくれる。これからの日本人の生き方を考えるうえでも、大いに参考になる一冊だ。
パスティス
パスティス 田山花袋『蒲団』をもとにした小説『FUTON』でデビューを飾った直木賞作家による渾身のパロディ小説集。「飲むマリファナ」ともいわれるお酒アブサンが禁じられ、その代用品として作られた「パスティス」。語源を辿れば「ごたまぜ」という意味がある。  そんなタイトルを持つ本書には「桃太郎」、夏目漱石「夢十夜」、芥川龍之介「寒山拾得」、太宰治「富嶽百景」をはじめ、アンデルセン「裸の王様」、ケストナー「動物会議」など、古今東西の名作が著者の目線により新しく書き直されている。中には、森鴎外「舞姫」のモデルとなったエリーゼのインタビューや、1953年に初演されたベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」を、1935年に亡くなった坪内逍遥が翻訳をしたという突飛な設定もあるなど、あらゆる作品をユーモアに変える中島京子のすごさがうかがえる。  時にはいじめ自殺や放射性物質、「女は産む機械」発言などの社会問題が巧みに織り交ぜられていて、単なる「代用品」としてのパロディに終わらない作者のオリジナルな魅力に富む一冊となっている。
ナショナリズムの現在
ナショナリズムの現在 ネット上で外国人への差別的な書き込みを行う「ネット右翼(ネトウヨ)」、さらには「○○人出て行け」といった言葉を街頭で訴えるヘイトスピーチ・デモなど、ここ数年国内では排外的な言動や行動に注目が集まっている。本書は新進気鋭の論客たちが、こうした現況にどう向き合うべきかを論じ合った記録だ。  中核をなすのは漫画家や研究者など、日ごろは異なる業界で活動する者同士が一堂に会して行われた第一章のやりとりだ。ヘイトスピーチへの危機感は登壇者の誰もが共有している。問題はその先だ。対抗策に関する各人の立場は微妙に食い違っている。例えば宇野常寛(評論家)が従来の「リベラル」以外の層も含めた、ネット右翼への対抗集団の強化を語るのに対し、朴順梨(ライター)は集団が独立したまま、根本的な問題が解決せずに終わってしまう可能性への危機感を訴える。細かな対立はあちこちで見られるが、言い換えればそれらは、問題を考える視点を炙り出す作業ともなっている。立場の違いに行き詰まるのではなく、一歩先へ思考を進めるための道標を提供する実践的な一冊だ。

特集special feature

    東大助手物語
    東大助手物語 なぜ自分はこんなに「人間嫌い」になったのか。かつて東京大学に「助手」の席を与え、次の就職も斡旋してくれた教授との関わりから、その理由を探る私小説ノンフィクション。 「誰も私に関わらないでくれ」と公言。『私の嫌いな10の人びと』などの著書でも知られるカント研究の哲学者は、如何にしてでき上がったのか、自己形成のルーツともいえる恩師との軋轢(あつれき)のエピソードが語られる。  助手や講師から助教授へと階段を上がるには地道に学問を究めるのではダメ。「東大よオマエもか!?」な唖然とする付け届け、恩師への奉公……。耐えきれなかったのは、海外滞在中の恩師の留守宅での庭の芝刈りだったという。言われる前に自ら気を利かして「お手伝いします」と言うのが常識だと、恩師夫人から呼び出され、妻共々に罵倒される。 「殿中松の廊下」にも匹敵する逸話の数々が、きまじめながら軽妙な文体でつづられる。とくにネチネチとした会話の再現は秀逸。  いしいひさいちの漫画を思わせ、「東大」に棲む人たちの生態、シキタリを明かした快著である。
    雲の上はいつも青空Scene.2
    雲の上はいつも青空Scene.2 ロックミュージシャンと市井の人々を撮り続けてきた写真家が、街で出会ったさまざまな人の優しい横顔と、自身の若き日々をふりかえったフォトエッセー。  生後わずか2カ月で腰椎カリエスを病み、絶望と孤独の中で育ったという著者は、いつも「人が人を好きになるような写真」を撮ってきた。バス停のベンチでハンバーガーをほおばる父子、私は誰にも媚びない、と目で宣言するセーラー服の少女。モノクロの画面の、ああ、ここにも自分がいる、そんな風景にふっと笑みがもれる。  10歳の女の子にも真剣に話をする著者の誠実な人柄に、誰もが驚くほど心を開く。ある女子高生は「なぜ生きるのか」と思い悩む日々を語り、震災の被災地でダメになった漁具を黙々と片づける漁師たちを、罵倒されるのを覚悟で撮影したときは、一人の若い漁師が「僕たちのかけがえのないものを形にしてもらった」という言葉を返す。  カメラは、笑顔の向こうにあるそれぞれの誇り、葛藤や孤独もとらえる。ただ懸命に生きている、そういう名もない人々の姿になぜだろう、涙がぽろぽろこぼれる。
    ぼくらは働く、未来をつくる。
    ぼくらは働く、未来をつくる。 今をときめく俳優・向井理と、飲食・農業・福祉など多彩な業界で活躍する働き手による対談集。  有名俳優と同じ地平で話すことは一見難しそうだが、個別のやりとりは実に自然だ。秘密は二つ考えられる。第一に、対談相手がいずれも向井と同世代(70年代後半~80年代前半生まれ)であること。第二に、向井の俳優「以外」のキャリアが活きていることだ。例えば飲食サービス専門職・宮崎辰にはバーテンダーだった経験から接客業の頂点を極めた彼の話が聞きたいと語りかけ、バイオベンチャー企業経営者・出雲充には大学で遺伝子研究に関わった経験から、ミドリムシ大量培養成功への驚きと理解を示す。出雲が少し話しただけで「非常に分かっていただける」と感激を振り返っていることからも、相手と同じ目線に立つことに過去の経験が大いに貢献しているのがわかる。  巻末の座談会では本書全体に通じるキーワードとして「社会の課題解決」が挙げられる。背景に富んだ対談内容も魅力的だが、「世代論」としても読み応えがある。
    見てしまう人びと 幻覚の脳科学
    見てしまう人びと 幻覚の脳科学 ピンク色の小人や、部屋の真ん中にいるドでかいクモ。突然こんなものが見えたら、誰でも自分の頭が変になったと思う。だがまったくの正気でも、人はしばしばあるはずのないものを見たり聞いたりするものらしい。これまで多くの症例を見てきた神経学者が、幻覚を通して脳の不思議をつづる医学エッセー。  幻覚の原因は病気や事故による脳の損傷、薬物などさまざま。過度の疲労でも起こり、トライアスロン選手がレース中に見た例もある。驚くのは、全盲の人が見ること。走り回る子供や舞い散る雪、その映像はリアルで鮮やかだ。  人を防音室に閉じ込め、全感覚を遮断しても幻覚が起こる。脳が正常に機能するには知覚の変化が必要だからで、「見る」とは目ではなくて脳が見ること、つまり脳が情報を組み立てて映像を作り出すことだとわかってくる。  宗教は幻覚を「神の啓示」と受けとることから始まるようだ。悪魔、鬼婆を信じない時代になれば、次は宇宙人や霊がとって代わり新しい物語を作る。人には恐ろしいもの、畏怖すべきものが必要なのだろうという著者の言葉がまことに興味深い。
    いつか来た町
    いつか来た町 人は町を歩いている時、何を考えているのだろう。おそらく、何かを目にしては何かを思い出し、新しい何かを見つけては別の何かに考えをめぐらせているのではないだろうか。本書は歌人である著者の、そんな連綿とつらなる記憶と思考を集めた随筆集である。 「連弾」では、冒頭で幼い姉妹が「きらきら星」を連弾する様子が語られる。町の楽器店の前に立って、かつて観た映画の温かな記憶を抱え、著者はピアノが登場する別の映画を想い起こす。初老の男女の奇妙な恋を描いた映画だ。再び歩き出す。古本屋がある。卒論を思い出す。カレー屋の前を通る。スマトラ島に思いを馳せる。  最後まで町の名前は明示されない。それでも読者は、著者の浮かんでは消える記憶や思考をたどるうちに、そこがどこかが何とはなしに分かるのである。「文章を読みかえすと、そのときのその町は何度もそのときのまま蘇ります」と、著者はあとがきに書く。短歌に時や場所や記憶を閉じこめるように、「そのときのその町」が本書にそっと閉じこめられているようだ。
    埼玉化する日本
    埼玉化する日本 消費社会論関係の著作で知られるライターが、「埼玉」という場所から見た新たなライフスタイルのありかたを提案した新書。いまひとつ個性に欠ける県と認識される「埼玉」への着眼を意外に思う向きもあるかもしれない。しかし、著者はそのような特性にこそ魅力を見いだす。特徴はないが、池袋や新宿など都心に気軽に足を運べる。ショッピングモールやエキナカも充実しているので、日常的な買い物にも事欠かない。それらの魅力に気づき九年前、埼玉に居住の地を移した自身の経験を踏まえ、埼玉は「意識の高い」消費と「意識の低い消費」両者に手が届く「実に『ちょうどいい』消費生活」の場所だと力説する。  タイトルが示す通り、もちろんこれは埼玉に限った話ではない。観光地としてのブランドを確立した沖縄でさえショッピングモールが造られる昨今は、日本全体が「埼玉化している」という。モールやチェーン店など「個性がない」風景が日本各地に林立する状況は、これまで悲観的に捉えられてきた。しかし本書はそうした状況とあえて「共存」してゆく希望を示唆している。

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