人は町を歩いている時、何を考えているのだろう。おそらく、何かを目にしては何かを思い出し、新しい何かを見つけては別の何かに考えをめぐらせているのではないだろうか。本書は歌人である著者の、そんな連綿とつらなる記憶と思考を集めた随筆集である。
「連弾」では、冒頭で幼い姉妹が「きらきら星」を連弾する様子が語られる。町の楽器店の前に立って、かつて観た映画の温かな記憶を抱え、著者はピアノが登場する別の映画を想い起こす。初老の男女の奇妙な恋を描いた映画だ。再び歩き出す。古本屋がある。卒論を思い出す。カレー屋の前を通る。スマトラ島に思いを馳せる。
 最後まで町の名前は明示されない。それでも読者は、著者の浮かんでは消える記憶や思考をたどるうちに、そこがどこかが何とはなしに分かるのである。「文章を読みかえすと、そのときのその町は何度もそのときのまま蘇ります」と、著者はあとがきに書く。短歌に時や場所や記憶を閉じこめるように、「そのときのその町」が本書にそっと閉じこめられているようだ。

週刊朝日 2015年1月30日号