「湯治場」秋田・孫六湯 1973年(C)Kazuo Kitai
「湯治場」秋田・孫六湯 1973年(C)Kazuo Kitai

「村へ」の連載開始の決定づけた中国を写したグラビアの評判

「流れ雲旅」は69年夏から70年暮れまで続いた計6回の旅をつづったもの。つげのイラストのほか、写真と文章で構成されていたが、連載開始直後につげの希望で撮影者が北井さんと交代するのだ。

 後に書籍化された『つげ義春流れ雲旅』(旺文社文庫)のあとがきには「村へ」にも通じる作品の雰囲気と意図が強く感じられる。そんなわけで、長くなるが引用したい。

<きれいな風景をみようという欲もなく、旅先や土地の人々の暮らしを知ろうという熱意もなく、ただふわふわと旅するだけであった。目の前にひろがる「風景」をみて(しばしみることに熱心で)ふわふわとその前を通りすぎていく、あるいは通りすぎてくるだけなのだ。主観的には優雅きわまるのんびり旅である。ただし、わたしたちがみる「風景」は現実にいまいたるところで「近代」という病菌によって壊死しつつあるわけであり、旅するとはついに実在する悲惨な空間を移り行きながら、同時に幻の「村」をもとめておのれの内を行くものではないか>

 そのころ、北井さんは「三里塚」「流れ雲旅」と並行して全国各地の田舎を撮り歩き、それが作品「いつか見た風景」に結実する。

「村へ」の連載開始が「決定的になった」のは、73年に木村が団長を務める日中友好撮影家訪中団の一員として中国を訪れたことが大きかったという。

「木村さんが団長でなかったら、ぼくは選ばれなかったと思う。『北井がいい』って、押しきっちゃったとか、周囲からそう聞いた。帰国後、『アサヒカメラ』で木村さん、篠山(紀信)さん、そしてぼくで16ページずつグラビアをやったんです。ずいぶん悪口を言われたけどね」と、苦笑する。

「でも、読者の評判はよかった。そのすぐ後に小島茂編集長から、『来年の連載をやってくれないか』、と言われたんです」

「嫁入りの日」岡山・久米 1974年(C)Kazuo Kitai
「嫁入りの日」岡山・久米 1974年(C)Kazuo Kitai

連載開始直後に「これじゃダメ」。方向転換して人をアップで撮影

 森山大道の後を継ぐ連載は「『いつか見た風景』でさんざん田舎を撮った延長でいこう」と決めていた。

「タイトルは、ちょうど高梨豊が写真集『都市へ』(イザラ書房、74年)を出そうとしていたときだったから、その逆で『村へ』でいいんじゃない、って言ったら、編集部員、満場一致で『それいいね!』って。それで、『村へ』になったんです」

 連載は74年1月号から「1年の約束で」始まった。第一回のサブタイトルは「稲刈りのあと」。

 思い描いたのは「遠い家族、遠い家、というイメージ。それで、ちょっと引き気味で、人がぽつんと風景の中にいるような感じの写真」だった。「稲刈りが終わったころだから、そんなのでやろうか、みたいな、かなりあいまいなスタートだった」。

「渡し舟」群馬・板倉 1976年(C)Kazuo Kitai
「渡し舟」群馬・板倉 1976年(C)Kazuo Kitai

 ところが、「すぐに、これじゃダメだ、12回は続かないと思ったの。『湯治場』『嫁入りの日』とか、毎回テーマをはっきりさせて、人にもっと接近した写真でやっていかないと、どれも同じ写真すぎちゃって飽きられると思った。展開の面白さがないとね。だから、2回目以降はけっこうアップになるんだよ」。

「村へ」は好評を博した。地方の読者にとっては身近な風景が作品化されたことへの驚きがあった。地方から都市に移り住んだ人々は故郷の風景に共感を覚えただろう。

「評判がいいから2年目も続けてくれ、と」、「村へ」は75年12月号まで続いた。そして翌年1月号からすぐに「そして、村へ」が始まるのだ。それには理由があった。

「木村伊兵衛写真賞の候補になって、『一度打ち切らせてくれ』と、編集部から言われたの。完結していないものは受賞対象になりにくいからって。で、打ち切ったら、『やっぱり、やってくれ』と。よく『北井が強引に押し切って続けた』とか言われたけれど、ぼくからお願いしたことは一度もない(笑)」

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こんなふうに撮るのは不可能かもしれない