九龍浦神社跡(現九龍浦公園)2014(撮影:藤本巧)
九龍浦神社跡(現九龍浦公園)2014(撮影:藤本巧)

40年以上写した全カットを韓国国立民族博物館に寄贈

 転機がおとずれたのは2011年ごろだった。「また撮影テーマがいくらでも出てきまして」。

 きっかけは韓流ブームだった。写真集を出すと、念願だったソウルでの展覧会が実現した。

 写真展を訪れた20代から40代の人には「われわれの民族の風景をよく撮ってくれた」と感謝された。韓国国立民族博物館からは写真の寄贈を依頼された。

「当初、『展覧会を見て』と言われたものですから、展示作品40、50点を寄贈すればいいと思ったんです。ところが、そうでなくて、ネガフィルムから資料まで全部ほしいという。1970、80年代の韓国の農村風景や一般の人々を写した写真は珍しく、貴重だったんです」

 当時は韓国人が自由にカメラを持ち歩くことは難しい時代だった。プロの写真家にとっても「日常を撮る」ことは仕事に結びつかず、写す人はほとんどいなかった。

「その写真を出版社などに貸し出すことでお金が入ってきたので、ずいぶん悩みました」

 最終的に「私が持っていても」と決心し、40年以上にわたって撮影した約4万6000カットが写ったネガフィルムなどをすべて寄贈した(それらは専門家によってデジタル化され、藤本さんに手渡された)。

 韓国に関するネガフィルムが手元からなくなると、「すっきりして、風通しがよくなるというか、新しいテーマに自分自身が向かっていることに気がついたんです」。

病棟跡(旧小鹿島更生園)2015(撮影:藤本巧)
病棟跡(旧小鹿島更生園)2015(撮影:藤本巧)

朽ち果てていく日本人漁民が住んでいた「日式住宅」

 そのころ、古本屋で『韓国内の日本人村 九龍浦で暮らした』(浦項市発行)という本を見つけた。そこには100年以上前に韓国に移住した日本人漁師の村のことが書かれていた。藤本さんは目から鱗が落ちるような思いをしたという。

「かつて日本人が住んでいた『日式住宅』の存在を初めて知ったんです。向こうでいうところの『敵産家屋』」
 調べてみると、86年に木浦で撮影した写真の中に日式住宅が見つかった。しかし、撮影当時はそれが日本人が住んでいた家とは気づかなかった。

「1910年の日韓併合からもう100年以上になりますから、みな、朽ち果てていました。それが、なくなる前に撮ろうと思ったんです」

 日式住宅に関する資料を探して読み、それをたどるかたちで現地を訪ね歩いた。しかし、その間にも開発の波が押し寄せ、まったく痕跡が消えてしまったところもあった。

 旧岡山村を訪れると、まだ日式住宅が残っていたものの、「広島村」「千葉村」の痕跡は完全に消滅していた。
「千葉村はほんの数年前まではあったんですよ。ところが、高速道路ができてなくなってしまった」

――現地に行って、がっかりしましたか?

「実はGoogle Earthで見て、道路になっていることはわかっていたんです。ですが、『ない』ということを確かめるために行きました。それも事実ですから、証拠写真のように写しました」

当初の撮影テーマとは異なる写真で作品で終えた理由

 当初、「韓国に移住した日本人漁民」の痕跡をたどる旅から始まった作品の流れは終盤で突然、「花井善吉院長」の足跡へと変わる。その接点というのが、冒頭に書いた「神社」なのだが、いかにも唐突な感じがする。しかし、藤本さんはそれも承知のうえという。

「花井善吉という人はテーマから外れている。それでもこの人物を入れたかったのは、花井さんはハンセン病の患者たちに自由を与えた人だからです。統治時代、日本の様式を押し付けた日本政府とは反対の思想で韓国の人たちと接した。その存在を入れることで、作品に深みを出したかったんです」

 国立小鹿島病院にはいまも花井院長の善行を知らしめる「彰徳碑」が建っている。患者たちは日本への排斥運動が高まると石碑を密かに地中に埋め、破壊から守ったという。その敷地内に韓国で唯一、神社が残されているのは偶然でない気がした。

                   (文・アサヒカメラ米倉昭仁)

【MEMO】藤本巧写真展
「寡黙な空間 韓国に移住した日本人漁民と花井善吉院長」
ニコンプラザ東京 THE GALLERY 12月8日~12月14日