東京タワーが「東京のタワー」だったと感じる53年前の西麻布 こんなにも見えた理由は? (2/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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東京タワーが「東京のタワー」だったと感じる53年前の西麻布 こんなにも見えた理由は?

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久dot.#アサヒカメラ#鉄道
現在、同じ場所で撮影すると、東京タワーが望めないどころか、首都高の高架が視界をさえぎる(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

現在、同じ場所で撮影すると、東京タワーが望めないどころか、首都高の高架が視界をさえぎる(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 当時の写真を見て、笄坂の沿道に家屋が無く、不自然に拡幅されている光景に気づいた人もいるだろう。これは、首都高速3号渋谷線建設用地としてセットバックされたからだ。写真左側の霞町交差点左角の家屋が全くなくなっている。この空き地は、左側の墓地下方向から建設を進めてきた外苑西通りの拡幅用地にも供されたようだ。

 笄坂や霞坂界隈は旧麻布区であったから、1967年の町名改正までは、麻布六本木、麻布材木町、麻布霞町、麻布笄町などのように町名の前に「麻布」を冠していた。改正後は港区西麻布に統一されてしまい、味も素っ気もない町名になってしまった。

 地名の由来は、大正末期まで坂下の霞町を流れていた「笄川」にあるようだ。また、「笄」とは日本髪に用いられる実用的な髪飾りのひとつだ。

 余談であるが、東京タワーの左隣に位置し、霞坂に面した白いビルは1964年に竣工した「霞町コーポ」だ。この1階に「ペンタックスギャラリー」、2階に「ペンタックスカメラ博物館」が開設されていた。これらの施設は、眼前を走る霞町線廃止前日の1967年12月8日に開場している。「ペンタックスカメラ博物館」は日本最初のカメラ博物館として、旭光学工業・松本三郎社長のカメラコレクション約600点を展示した。また、「ペンタックスギャラリー」はカメラメーカーが運営するフォト・ギャラリーの嚆矢であった。著名写真家の写真展が次々と開催されるなど、西麻布が写真文化の発信地として、大いに脚光を浴びた時代だった。

■撮影:1965年1月23日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数


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