当時、霞町と呼ばれた西麻布の交差点近く、「笄坂」にて撮影。東京タワーが四方から見えたことがわかる(撮影・諸河久:1965年1月23日)
当時、霞町と呼ばれた西麻布の交差点近く、「笄坂」にて撮影。東京タワーが四方から見えたことがわかる(撮影・諸河久:1965年1月23日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、かつて東京タワーを遠望できた西麻布交差点付近の六本木通り沿い「笄坂(こうがいざか)」を上る都電だ。

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 クリスマスのシーズンになるとライトアップがひと際美しく見える「東京タワー」。9月30日に約60年間続いたテレビ放送の電波送信が終わり、電波塔としての役目をひっそりと終えた。高さでも「東京スカイツリー」が上回り、いよいよ“主役”の交代かと思われたが、いまでも東京のシンボルといえば「東京タワー」を想起する読者も多いだろう。

 そんな東京タワーが威風堂々とした風貌で都内の四方から望むことができ、まさに“東京のタワー”だったと感じさせるのが、今回の写真だ。

現在の西麻布から遠望できた

 写真は、谷底のような霞町(現在は西麻布)交差点から高樹町(後年・南青山七丁目に改称)停留所に向かって登坂する都電6系統渋谷駅前行きを捉えた。虎ノ門~六本木間では青山一丁目経由の9系統渋谷駅前行きと行き先が重複するため、方向幕の表示が「霞町 渋谷駅」になっていた。

 ここからは1958年に竣工した333mの威容を誇る東京タワーを遠望することができた。撮影時に都電と東京タワーのコンビネーションをどうするのか、全く意識しないでシャッターを切った。現像後のネガを覗くと、両者のコンビネーションがうまく纏まって「結果オーライ」だったことに安堵した。

 上空の架線メッセンジャーに「特別坂路 注意」の標識が吊るされている。これは急坂のため「坂上で一旦停車。ブレーキと先行車を確認してから坂を下れ」という運転保安標識であった。左側柱上の二灯式信号は、先行する電車との間隔が短い場合は停止現示する信号機だ。

昭和40年3月の路線図。霞町界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和40年3月の路線図。霞町界隈(資料提供/東京都交通局)

「麻布の専用軌道」編で紹介した墓地下~霞町を走る広尾線と霞町交差点で直角に交差していたのが霞町線で、青山六丁目(後年・南青山五丁目に改称)~溜池まで3516mの路線だった。広尾線の開業は明治期の1906年だったが、霞町線は大正になった1914年9月、東京市による敷設で開業している。

 霞町線を走っていたのは6系統で、渋谷駅前を発して青山六丁目~霞町~六本木~溜池~虎ノ門~新橋に至る6124mの路線。戦前は7系統として、青山六丁目~溜池~田村町一丁目~日比谷公園~馬場先門~永代橋を運転していた時期もあった。

首都高3号線が景観を変えた

 撮影したのは、1964年10月開催された「東京オリンピック」の約3カ月後。五輪が閉幕しても、東京の街はスクラップ・アンド・ビルドが繰り返されていた。首都高速3号渋谷線の建設工事が進捗して、そのルートとなる六本木通り(高樹町~霞町~六本木~溜池)を走る6系統沿道の景観が大きく変わろうとしていた。六本木から霞町(現・西麻布)にかけては霞坂があり、霞町から高樹町(現・南青山七丁目)にかけては、この「笄坂」がある起伏に満ちた地形だ。霞坂を一気に下って、手前の笄坂を力行(りきこう)するシーンは、ファンにとって堪えられない光景だった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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