写真はイメージ(GettyImages)
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 体外受精を繰り返し、心身ともに追い込まれる中で、周りに本音を言える人はいなかった。不妊治療は「恥ずかしいもの」だという意識がどこかにあり、子どもがいる友人たちとは自然と遠ざかった。

 周りの妊娠を喜べず、年賀状やSNSでかわいい赤ちゃんや子どもの写真を見ると不快に感じてしまう自分がいる。電車の中でお腹の大きい妊婦やベビーカーに乗った赤ちゃんに遭遇すると、「どうして私だけ……」という感情が溢れ、涙が止まらなくなることもあった。

 悲しみや妬み、敗北感や劣等感で心が支配され、朝から晩まで妊娠について考える毎日。生理が来るたびに喪失体験を繰り返す中で、自分を責めに責めた。心のコントロールもできなくなり、まるで自分が他人に乗っ取られたようだった。

 そんな中にあっても、治療費のためにフルタイムで仕事は続けた。自分の給料は全て治療につぎ込み、足りない分は夫に出してもらう。治療費がかさむたびに、「何が何でも妊娠しなければ」という気持ちも強まった。 

 そのうち、頭痛やめまい、耳鳴りといった症状があらわれるようになり、仕事や病院から帰ると気絶するように横になる日々が続いた。一度横になると、なかなか起き上がることができない。どこかで自分が壊れ始めていることは感じていたが、「来月赤ちゃんができたら全部元に戻る」「今だけ我慢したらいい」と、呪文のように自分に言い聞かせていた。

 度重なるからだの不調が深刻なものになり、耳鼻科と内科を受診すると、心療内科を勧められた。その時初めて、精神的な不具合がからだに支障をきたしていることを知った。結局、心療内科には行かなかったが、不妊治療のために通っている病院で、看護師によるカウンセリングを一度受けた。

 だが、心に寄り添うというよりは、治療の進め方の説明など、話す内容は医師とほとんど同じもので、二回目のカウンセリングを受けようとは思わなかった。

 この頃には、押し寄せる焦りや不安、落胆などの感情を抑えるので精一杯で、目の前の夫の気持ちなど考える余裕がなかった。夫に弱音を吐きたい時もあったが、「そんなに辛いなら治療をやめたら?」と言われることを恐れて、弱みだけは絶対に見せられない自分もいた。

 そうした中で夫と治療の話をすると、互いに感情的になってしまうため、自分の伝えたいことは手紙に書いて渡すようになった。この頃、家の中でもなるべく顔を合わさないように過ごしていた二人だったが、手紙を介したやり取りによって、少しずつ距離が元に戻っていった。

 長く続いた暗闇を抜ける転機は、42歳で訪れた。医師から「このまま治療を続けても難しいと思う」「夫婦二人の生活について話してみたらどうか」と告げられた。自分でも薄々察していた、“治療の終わり”が具体的になった瞬間だった。

 “治療の終わり”が見え、暗闇を抜ける転機を迎えたところで、43歳で自然妊娠――しかし……。(後編に続く)

【後編はこちら→】10年間の不妊治療をやめたら自然妊娠、2度の流産…授かれなかったその先にあるもの

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松岡かすみ

松岡かすみ

松岡かすみ(まつおか・かすみ) 1986年、高知県生まれ。同志社大学文学部卒業。PR会社、宣伝会議を経て、2015年より「週刊朝日」編集部記者。2021年からフリーランス記者として、雑誌や書籍、ウェブメディアなどの分野で活動。

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